今この瞬間が、粒立つ音のように一つひとつ際立って感じられた。
最前列から見上げると、グランドピアノにすっぽり隠れて演奏者の表情はよく見えない。けれど時々、腰を浮かせるほどの力が鍵盤に込められ、頭がふっと見える。ついには最後の一音を力いっぱい鳴らし、振り上げた手がふわりと宙を舞う。ほぼ満員の観客は、今日一番の拍手を送った。
隣に座った親子も、一人で来ているようなおじいちゃんも、誰もが煌々と照らされたステージを見つめ、しばらく手を止めなかった。
やがてホール全体が明るくなり、それぞれが階段を上がっていく。私はサイン会に並ぶ列を横目に外へ出ると、真夏の午後の熱気がまとわりつく中をずんずん歩いた。会場限定盤のCDを買えばよかったかなと思いながら、駅まで来てしまった。
地元の公演だし知っている曲も多そうだと勢いでチケットを取ったが、奏者についてはよく知らなかった。パンフレットに並ぶ華やかな経歴や迫力ある演奏は、まるで遠い存在のように思えた。それでいて、曲の合間にマイク片手で観客を笑わせながらショパンについて語る姿は、親しみやすく柔らかい雰囲気をまとっていた。
「このあと、みなさんの感想を直接聞けることを楽しみにしています。それではまた。」
同年代か、少し若くも見えるピアニストはそう言って舞台裏へ戻っていった。
ホームのベンチで汗を拭きながら、あの列に並んでいる自分を想像してみる。木枯らしのエチュードは特に心をつかまれた。ゆっくり始まったかと思えば、荒々しいメロディーに一気に引き込まれる。きっと自分には伝えるほどの言葉がないし、伝えたところで何になるんだろうと考えて足早に出てきてしまったのだろう。要するに、勇気が出なかったのだ。今日は。
これも曲間のコメントで知ったのだが、このコンサートは5年目になるらしい。もし来年もあるなら、また聴きに行きたい。願わくは、そのときの私が感じたことを、形にする機会を逃さずにいられますように。
電車に揺られてしばらくすると、明日は月曜日という現実に身体はぐったりとしてきた。それでも心はどこか軽やかで、暗く涼しいホールで過ごした穏やかな時間の輪郭が、くっきりと残っていた。
現実なのに夢みたい。
毎日見てる顔なのに、ラストの曲で目の前に来た君は、どんな映像より非現実的だった。同じ空間で君と共有したはずの時間があまりにも一瞬で記憶から溢れていく。綺麗だと言って見つめた光の海は、いつか君の思い出に変わるだろうか。
君と出会ったその事実が私の晴れない心を照らすから、もし君が疲れた時は、暖かく包む光になれたらいいな。
「明日はキーマカレーにしますか?」
1週間のうち木曜日が一番しんどいと感じる人が多いらしい。前にそんな話を2人でした気もするが、持ち帰りの仕事と睨めっこしている私が、相当疲れているように見えたのだろう。
「…うん!」
申し訳なさと期待感を、バランスよく込めて返事をする。明日会社に行けば週末が来る上に、ご褒美が待っているなんて。声に嬉しさの分量が多すぎたかもしれない。自分でもわかるくらい、きらきらと瞳に光を宿して画面に向き直る。
彼とは学生の頃に知り合った。同じ大学ではないが近くのキャンパスに通っていて、電車で時々見かけたらしい。ある日、リクルートスーツを着た姿を見て、いつもと違う雰囲気にドキッとしたんだとお酒の勢いで話してくれたことがある。就活のアドバイスが欲しいと、他大の後輩にいきなり話しかけられて、こちらはだいぶ面くらったのだけど。ただ、真面目でかわいいというか、物腰が柔らかくて、話したこともないのにいい人そうだと思った。波長が合い、ペースを合わせてもらいつつ穏やかに進むお付き合いは心地よかったし、同棲を提案されたときも、特に断る理由がなかった。
というより、正直に言えば、ある一品に胃袋を掴まれていた。野菜たっぷりのキーマカレーだ。卒業と同時に一人暮らしを始めてからの1〜2年は、新たな環境と忙しさで私が余裕を失くし、よもや自然消滅かと思われるくらい会えない時期だった。せめて記念日は一緒に過ごそうと、お家ご飯を振舞ってくれたのが1回目に食べた記憶である。自分ではほぼ料理をしないので、どんなメニューでも感動してしまうのだけど、なぜか、自分以外の誰かがいる暖かさというか特別な存在感を一口進めるごとに感じたのだ。
明日で何度目だろうか。手帳も日記もまともに書けたことがないけれど、ほんの少し、記録しておいてもよかったかも、なんて考えてしまう。いや、まずは明日の資料作りだ。
空想から目の前の現実に戻った自分を褒めながら、キーボードをまた忙しなく叩き始めたが、明日の準備を終えた彼がすぐ後ろを通り過ぎようとしたので、思い直して手を止めた。
「ねぇ、もうすぐ終わりそうだから、帰りに買ってきたプリン食べようか。」
君は僕の推しだった。
教養英語で同じクラスになった君は、クールで近寄りがたい印象だった。ある日いつも隣にいる友達が休みで後ろの席の僕とペアワークすることになった。実際に話してみると、意外とふわふわしていて、人懐っこくて、話すたびに自分しか知らない一面を見たような気持ちになった。君の世界と接点さえあれば気づけるのだけど。事実、連絡先を聞くのは同じクラスの僕達だけじゃなかったし、君が友人達と無邪気に笑うのをよく見るようになった。
僕の存在が認知されてからは、学内で会えば挨拶すると返してくれて、授業のことなんかで時々LINEもした。来年はかぶる授業がなさそうだから、現場で会うことも少なくなるだろうし、推しからレスをもらう機会はなくなりそうだ。
春休みを目前に控えて、浮かない気持ちを抱える中、期末試験前の混み合う図書館で、君を見かけた。本当は少し離れたところにも空きがあったけど、隣の席に座った。別に不自然じゃないだろう。座る時に目が合って、手を少し挙げて合図する。控えめに微笑みながら、机の上に置いた手を小さく振って、すぐ視線を戻す君。
寒さも相まってやけに静かだった。集中が切れると、横にいる君が気になった。有線イヤホン、何を聴いているんだろう。クラシックとかかな。食堂ではよく友達といるけど、勉強は1人派なのかな。
閉館時間になり、学生達がぞろぞろと出口に向かう。いつもならバス停に急ぐけど、もたもたと準備をした。君はマフラーを巻き終えると、会釈して先に歩き出す。
やっと図書館を出たところで、追いついて声をかけた。
「あ、お疲れ。」
「うん、お疲れ。」
君ははにかんだ笑顔で続ける。
「けっこうお腹鳴っちゃったかも。聞こえた?」
「え、全然気づかなかったよ。大丈夫だと思う。」
「そっか。よかった。」
そう言って、君は何事もなかったように前を向いた。
別れ際に、ただ一言かけたいだけだった僕は、少し舞い上がっていた。
「あのさ、もしよかったらだけど、ご飯でもどう?奢るよ。」
マフラーを口元まですっぽり巻いた顔がこちらを向くと、君はきょとんとした目をしながら少し首を傾けた。
「いや、大丈夫。奢ってもらう理由もないし。」
さっきと同じ優しい口調なのに、若干温度が下がっていた。どうやら推しとの距離感を間違えたみたいだ。
「そっか。うん。えっと、じゃあ、試験頑張ってね。」
「うん。お互い頑張ろうね。風邪引かないように。」
僕のぎこちないガッツポーズに君がふにゃりと笑う。
今度は僕が先を歩いて、早足でバス停へと向かった。推しが笑ってくれたんだから、それでいいじゃないか。
冷たい風で頭を冷やしつつ、君の笑顔を思い浮かべた。
今にも泣き出しそうな君
涙まで我慢しなくていいのに
通り雨のあとはきっと
すぐに晴れるから大丈夫だよ