玄関のドアを開けたとき、足元に積もったチラシに躓いた。拾う気力もなく靴を脱ぎ捨てたとき、ふと気づく。最近、仕事ばかりで部屋は荒れ放題だ。
その朝、体調を崩して布団から起き上がれず、会社に行けなかった。罪悪感を抱えながら一日を過ごしていると、めったに連絡を取らない友人から電話があった。
「大丈夫?無理してない?…時間の使い方、考えてね」
その言葉が、胸の奥に残った。
翌日から仕事に戻ったものの、電車に揺られながら自分に問いかけていた。
――もしも世界が終わるなら、私は何をするだろう。
浮かんできたのは、ずっとやりたいと思っていた小さなことだった。
会社帰り、初めて駅前の花屋に立ち寄った。迷った末に選んだのは、淡いピンクの花一輪。部屋に飾ると、散らかっていた雑誌やカップが急に目について、自然と片付け始めていた。グラスの水に花を差すと、部屋の空気が少しだけ澄んで見えた。
数日後、花びらの縁が茶色に変わり始めたとき、切なさが胸をかすめた。永遠じゃないからこそ、今の時間がいとおしいのだと思った。
ある日、気になっていた小さなフランス菓子屋に立ち寄った。焼きたてのクロワッサンをひとつ。店員が「よかったらどうぞ」と小さなチョコをおまけに袋へ入れてくれた。
帰り道、そのチョコをつまむ。口の中に広がる甘さと、誰かのさりげない優しさに、体の奥がふっとほどけていった。
週末には、同僚からもらった交響楽団のチケットで生演奏を聴きに行った。オーケストラの音に体中が揺さぶられる。心の奥まで響く旋律に触れた瞬間、忘れていた感覚が戻ってくるのを感じた。
家に帰り、思わずキーボードを買った。少しずつ楽譜を進める。誰に聴かせるわけでもない。けれど、自分の指先から生まれる音が少しずつ形になっていくのを感じるたび、心が満たされていく。
花を買い、パンを選び、音楽を奏でる――そんな小さな時間が日常に差し込まれていく。忙しい毎日は変わらないけれど、心の景色は少しずつ違って見えた。
世界は今日も続いている。けれど、花を手にし、音を聴き、指で音を紡ぐ私は思う。
――もし今日が最後でも、これでいい。
9/19/2025, 10:17:47 AM