あぜ道を歩くと、稲の穂がさらさらと揺れ枯れ草の香ばしい香りが、鼻先を通り抜ける。夏のなごりの鋭い日射しと乾いた風が、小高い丘を駆け上る。
丘へとつづく坂を登ると、十字路があった。脇に一本大きな木があり、その木陰で少し休むことにした。
木陰には先客がいたようだ。男はまだ夏の暑さの残る日中にもかかわらず黒のスーツをかっちりと着込んでいた。妙な男だと思った。そして自分のことを悪魔なのだと言った。ぎょっとして男のほうをみると、男は笑っていた。見ないほうがいいとわかっていたが、つい男の目を見てしまった。黒目と思っていた部分は何十もの黒い蛇が渦巻いていた。時々ちらちらと小さな真っ赤な舌が見える。そして上着の裾の下からは、よく分からない関節を持った器官がはみ出していた。
「きみは何故こんな真っ昼間の秋晴れの空の下、おれのようなものがうろついているのか不思議に思うだろうが、簡単なことさ。きみたちが信じているような神はいないってことだよ」。そう言いながら悪魔はごろんと草の上に寝転んだ。
「いまやおれたちは何時でもどこへでもいける。ちょっと前までは考えられないことだったよ」。悪魔が可笑しそうに笑うと目の中の蛇も揺れてぽとりと草の上に落ちた。
「今までおれたちは忌み嫌われてきた。きみたちが勝手に神みたいなものを作って信じてきたからだ。だからどうしたかというと――おれたちが神になったんだよ」。悪魔はさも得意げに言った。
「おれたちは何でもかんでも『正義』をつくってあちこちで神になった。まず、地震をおこしたり、疫病を流行らせてきみたちの心の根っこの部分をぐらぐらにした。そうしたらきみたちは不安定になるだろう?そうすると、どんなに適当な正義だろうが神だろうが、信じたくなるんだよ。おれたちはあちこちで神になって『正義』を振りかざした。そしたらきみたちは勝手にいざこざを起こしはじめたのさ。暴力だ!レイプだ!…人が死にまくったよ。あぁ、こんなに愉快なことがあるかい?神よ、万歳だ!」悪魔は下品な笑い声をあげながら蛇をそこいら中に撒き散らしている。蛇たちはどんどん大きくおぞましくなっていく。
わたしは呆然としながらそこに立っていた。
もはや何を信じればいいのか、というよりも信じるものなど最初からなかったのではないのか。わけのわからない巨大な渦に巻き込まれる小さな木の葉になった気分がした。
「きみは生かしておいてやるよ。木の葉になったきみがこれから先どう生きていくのか、おれには興味がある。なんせおれは慈悲深い「神様」だからな」。にやりと笑った悪魔は、よく分からない関節をぐいと伸ばして翼のようなものを広げると、あっという間に太陽にむかって飛び去って行った。
わたしは今もその時のことを忘れたことはない。
今日もニュースを見ながら想いを巡らせる。悪魔の笑い声を聞きながら、木の葉になった自分の存在を。
ゆれる触手が わたしを捕らえる
締め上げられるほどに 苦しくて 口の端から
嗚咽が漏れる
指の先からシビレが 身体の中心を溶かしながら
やさしくわたしを だめにする
息をしたいの このままでは死んでしまうの
わたしの意識は 身体をおいて たかくたかく
のぼっていく
光をまとった蝶が 巨大な木の下を 飛び回る
静かに ひそやかに 誰かを待っている
その日、わたしは電車に乗らなかった。
並んだ列から自然に一歩横に踏み出した。わたしの並んでいた空間は何事もなかったかのように、すぐに埋まってしまった。わたしなど存在しなかったかのように。
電車が来ると、効率的に列が扉の中へと押しだされていった。スーツを着た中年の女がちらりとこちらを見たような気がしたが、気のせいかもしれない。
わたしは誰も並んでいない、反対方向の電車に乗った。
座席には、ぽつりぽつりまばらに人が座っているだけで、いつもより多く空気が吸える気がした。
カバンから読みかけの文庫本をとりだして、目で文字を追ったが、頭の中ではメロンクリームソーダのことを考えていた。
静かな喫茶店の完璧なメロンクリームソーダの中で、わたしは眠るのだ。甘く冷たいクリームの中でこの世のすべての記憶がなくなり、わたしはただのわたしになる。
透明でグリーンの小さな無数の泡が、全身の皮膚を柔らかく刺激して、わたしはグラスの底までゆっくりとおちていく。次第に眠りが訪れて、泡の数だけ夢をみるのだ。それは楽しい夢かもしれないし、おそろしい夢かもしれない。ゆっくりとあまい眠りが自分に訪れるところを想像する。
そして持っている文庫本をぱたんと閉じた。
わたしは電車を降りた。
こたかさんと飲みに行くようになったのは、いつからだったか。とくに約束をすることもなく、ふと思い立てば出かけていった。
こたかさんは、あまり喋らないけどピーナッツのうまい剥き方を丁寧に教えてくれるような人だった。
酒を飲みながら、どうでもよい話しをぽつりぽつりとして、酔いがまわってくるまで飲み続けた。
こたかさんとは、初め友人の店で会った。
次に町中で声をかけられたときは、最初の印象が薄すぎて、誰だか分からなかったが、それからなんとなく会って飲むようになった。
こたかさんは、いつの間にか、近所の見知った道の、延長線上にいるような人になった。
こたかさんとのあいだには、何も生まれ出ることはなかった。
なにか、生まれ出てくるものが、おそろしいものだったら、怖いと思った。
店を出ると、この辺の田舎道は街灯もまばらで、あたりはもう薄暗くなってきていた。
ももよさん、少し歩こうといって、こたかさんはわたしの手をとった。こたかさんの手は、温かくて少し湿っていた。
手をつないだのは、この時がはじめてだった。
ススキの穂がさらさらと風に揺れていた。
ももちゃんの手はつめたいわね
そう言って母はぎゅっと両手でわたしの手をにぎった。
母の手はあたたかかった。
「お母さん、あの星はなんの形の星なの?」
「さぁ、知らないわ。」
あれとあれとあれをと言いながら夜空を指さして、母の顔を見た。月の光に照らされて、絵本でみたキツネのお嫁さんみたいに美しかった。
「キノコみたいに見えるよ」
「キノコ座なんてないわよ。星座は勝手につくってはいけないのよ。」
母は子供を子供扱いしない人だった。
「どうして?誰がつくったらいいの?」
「その星が星座であるためには、みんながそれを認知してないとだめなのよ。そしてみんなが納得しなくてはね。」
ニンチはよく分からなかったが、前後の文脈でなんとなく意味はわかった。
「だれが、最初にみんなに知らせたの?」
「さあね、神様がある人に教えて、そのある人が他の誰かに教えて、それをまた他の誰かに教えて…そういうことだと思うわ。だから星座になるには、神様のおゆるしがいるのよ。勝手につくっては駄目だし、いったん繋がれた星同士は、もう何があっても離れられないのよ。」
つながった手をたどって母の顔を見ようとしたが、暗くてよく見えなかった。
父と母は翌年、離婚した。
こたかさんは、どんどん先へすすんでいった。
あたりは真っ暗になり、近所のつもりが知らない道を歩いている気になった。どこだかわからない、道があるのかさえわからない場所に取り残されそうで、怖かった。
こたかさん、おいていかないでよ
ひとりに、しないでよ
つないだ手がほどけないように、力をぎゅっと込めた。
ももよさんの手はつめたいね
急に立ち止まって、こたかさんはわたしの手を握ったまま、ささやいた。
こたかさんとわたしはこのまま深くつながるのだろうか。
そして、ニンチ、になるのだろうか。
虫の声が、嵐のようにわたしを取り巻く。
悲しいのか、恐ろしいのか、自分の足元が消えかかっているような気がした。
嵐は桜 春の宵 ぼくときみの影に花びらが散る
夏の夕暮れ ひとときの気だるさ 汗を拭うきみの指
静謐の秋 ベッドの上に永遠とふり積もる埃が
キラキラと舞う
そして冬 眠るようにきみは死んだ
きみはぼくが死ぬのを待っている
誰もいないキッチンの 食器棚の中の
コーヒーカップみたいに 静かに 身動き一つせずに
死は過程に過ぎないと きみは言った
季節が巡るのと同じことなのだと
だからどこに行っても わたしをさがして
最期にきみは ぼくにそう言った
ぼくはきっときみを見つけられるはずだ
ぼくはずっとさがし続ける
季節が巡り続けたとしても