fumi

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その日、わたしは電車に乗らなかった。
並んだ列から自然に一歩横に踏み出した。わたしの並んでいた空間は何事もなかったかのように、すぐに埋まってしまった。わたしなど存在しなかったかのように。
電車が来ると、効率的に列が扉の中へと押しだされていった。スーツを着た中年の女がちらりとこちらを見たような気がしたが、気のせいかもしれない。

わたしは誰も並んでいない、反対方向の電車に乗った。
座席には、ぽつりぽつりまばらに人が座っているだけで、いつもより多く空気が吸える気がした。
カバンから読みかけの文庫本をとりだして、目で文字を追ったが、頭の中ではメロンクリームソーダのことを考えていた。
静かな喫茶店の完璧なメロンクリームソーダの中で、わたしは眠るのだ。甘く冷たいクリームの中でこの世のすべての記憶がなくなり、わたしはただのわたしになる。
透明でグリーンの小さな無数の泡が、全身の皮膚を柔らかく刺激して、わたしはグラスの底までゆっくりとおちていく。次第に眠りが訪れて、泡の数だけ夢をみるのだ。それは楽しい夢かもしれないし、おそろしい夢かもしれない。ゆっくりとあまい眠りが自分に訪れるところを想像する。
そして持っている文庫本をぱたんと閉じた。
わたしは電車を降りた。

10/9/2024, 9:52:18 AM