その日、わたしのこころは氷のように冷たく、石のように硬くなり、深く海の底に沈んでおりました。
もうどうにもこの世にとどまる理由を思いつけなくなり、決着をつけるべくうろうろと、屍のごとく歩いておりました。
人々の笑い声がとおい記憶のように、前から後ろへと流れ去ってゆきました。
いつの間にか駅のホームにつき、ぼんやりとベンチに腰掛け、来たるべきそのタイミングを待っておりました。
ふと、向かいのホームに何を見るでもなく目をやると、一人、サラリーマン風の年配の男性が立っておりました。
そして自分の傘の先っぽをつかむと、ほとんど真剣にゴルフのスイングをやり始めました。
まっすぐに腕を伸ばし、足と腰の位置を整え、あたかもそこにボールが見えているかのように、真剣に傘の柄のカーブの先を見据えております。ゆっくりと腕を顔の横まであげました。
ヒュンという音とともに一瞬で振り抜いたかと思うと、思い切り傘の柄を地面に叩きつけてしまい、柄の部分だけがぽーんとホームの先のほうへと飛んでいってしまいました。
その男性は一瞬あっけにとられながらも、すぐに周りをきょろきょろ見ながら、小走りで傘の柄をとりに行きました。
わたしは、思わず不謹慎だとは思いましたが、吹き出してしまいました。そしてそのまま家路についたのです。
次の日の朝、わたしはもう駅のホームにはいかないと心に決めて家を出ました。
そして、なるべく5階建て以上の古くて管理の行き届いていなさそうなビルを探しました
今度はうまく、人のいなさそうな廃ビルを見つけて、雑草と瓦礫をかき分け、中に入りました。
屋上へとつづく階段を見つけると、ゆっくりとのぼって行きました。
最後の階段を登り終え、屋上へ出るとうまい具合に一箇所、金網のフェンスの破れているところを見つけました。
そして、金網に手をかけた瞬間、後ろから声が聞こえました。
無視して前に進もうと思いましたが、あまりにか細く、切実な声だったので、つい後ろを振り返ってしまいました。
そこには、小さな真っ白なふわふわの子猫が、ふらふらと歩いていました。その子猫はあまりに小さく、まだ目もあいていませんでした。周りをみても親猫や兄弟らしき猫はおらず、二月の寒空の下、最期の力を振り絞って懸命に助けを呼んでおりました。
そしてわたしは、うっかり子猫を飼い始めてしまいました。
そしてもう、子猫のいない所へは、行けなくなりました。
ももよさん、ほら、雨の足あとがついてるよ
こたかさん、それ、廊下が濡れてるだけじゃない
ちがうよ、雨がとおった跡だよ
ももよさん、ロマンチストじゃないね
そう言いながら、こたかさんはわたしの足の親指を
くるくるまわした
こたかさん くすぐったいよ
ももよさんの足に雨がついてないか、たしかめてるのさ
雨が、ほんとうに通ってきたかもしれないと
思ってしまいそうになった
いつものようにわたしは、園庭の隅にあるお気に入りの青い木馬にまたがった。
誰にも先を越されないよう、昼休みになると真っ先に自分の居場所を確保した。草が生い茂り、木陰にある少し薄暗いその場所は他の子達には不人気で、わたし以外ほとんど誰も寄り付かなかった。
「ねぇジミー、今日はなにをしてあそぼうか」トカゲに向かってクローバーを差し出すと、ジミーは驚いて草むらにとびこんで姿を消した。
「またね、ジミー」そう言ってクローバーをジミーのいたところにおくと、シロツメクサの花束をつくって、香りを思い切り吸いこんだ。
先週、先生がうちにきてお母さんと話しをしていた。
「もう少しほかの子達とも積極的に遊べるといいんですが。」
園庭の中央にはジャングルジムがあった。青い空の下、元気な男の子たちが、我さきに息をきらせながら上へ上へと登っていく。一番先に頂上まで登った子は、お城を征服した王様のように、誇らしげで、彼にしか見えない景色を見、彼にしか感じられない風にふかれていた。
わたしは、必死に上へ上へ登ることに興味を持てなかった。下のすみっこでトカゲや植物たちを眺めているほうが好きだった。
夕暮れどき、一人、また一人、お迎えがきて園庭には誰もいなくなった。昼間王様だったあの男の子も、お母さんがくると泣いて駆け寄り、ぎゅっと手をつないで帰路についた。
わたしは誰もいなくなったジャングルジムに登った。
体の重心をうまく使えず、無駄に力を使いながら、一歩一歩上へと登っていった。
一番上まで登りきると、ゆっくりとバランスを取りながら腰を下ろした。足元をすり抜ける猫のようにように、遠くの山々からふく風が、わたしの皮膚をなでながら駆け抜けていった。それは自分が透明になるような不思議な感覚だった。
ジャングルジムの頂上から見る景色は、誇らしげにも王様気分にもなれなかったけど、そこから見た夕暮れの赤や青、紫色の、太陽が最後に残した、美しく、少し寂しい物語は、わたしだけのものだった。
ぼくはね やきいもを食べてるきみがだいすきなんだ
アツアツのやきいもをはんぶんこして ふーふーして
やきいもの甘い湯気をかき分けながら おいしそうにかぶり付くきみの幸せそうな顔をみるのが大好きなんだ
そしてきみは プッと放屁する そしてぼくの方をみて
ニヤッとする ぼくはそんなきみを見てると 可愛くて仕方がなくなっちゃうんだ
そのうち おなかいっぱいになったきみは やきいものようにごろごろと 床にころがって眠ってしまう
猫のように 無防備にまあるいお腹をだして
ぼくは この上ないしあわせを感じる
ねぇきみ きみは何もしてくれなくても やきいもを食べてるだけで ぼくに こんなに幸せをくれるんだよ
世界にひとつだけ 唯一無二
とても大切な、特別な、ほかに変わりのないもの
しかし本当は世界に同じものはひとつも存在しない
同じ木になったリンゴでも、色もカタチも微妙に違う
大量生産されたリンゴの置物でさえ、あるものは誰かの思い出となり、玄関の靴箱の上にひっそりと飾られ、あるものは子供のおもちゃとなり、あるものはさっさとゴミ箱に捨てられる
時間という運命は、不可逆的な網の目のように私たちをちがう場所へと誘う
一秒前の空を見ることは永遠にできない
私たちは底なしに自由で、私が私でいる確証もない、一秒後にはすべてが終わるかもしれない世界で生きている
自由な翼を手に入れた代償は、足元にひろがった永遠の闇だ
私たちは手をつないで、名前をつけ、同じだと思い込む
足元の闇に囚われないよう、そこに大地があり今日と同じ明日がくると思い込む
そうやって作られた「同じ」世界は、安心、安全できゅうくつな愛すべきたましいの牢獄だ
そこでは自由、違うこと、闇でさえが、もてはやされる
わたしは虫に食われた木の葉を一枚手にとって、ハッとする