その男にとって、それまでの20年間の人生は無駄と言っても差し支えのないものだった。怠惰。無為。どんな言葉が当てはまろう。ともかく、なんの意味を持ち合わせていないようだった。
俺はこの人生において何か為せるのだろうか。それとも、このまま蛆のように腐り続けて、のうのうと生きながらえるのだろうか。
みっともないのは好きではない。だから、ここいらですっぱり死んでしまおう。ほら、ちょうどキリの良い数字でもあるだろう。
そうして男は早速頑丈なロープを手にいれ、自宅の天井に吊るした。
いつか見た映画を思い出す。仮釈放中に自殺した囚人。彼の遺言。『ブルックス、ここにありき』
その意味を考えず、何となしに真似をすることにした。子供の頃使った彫刻刀を引っ張り出す。目の前の柱に名前だけ変えて雑に掘った。特に感慨もなく掘り終わってしまう。
今際の際である。普段から使い慣れた椅子の上に乗る。固く結ばれた輪が目の前に垂れる。なんだかその輪が特別な力でも持っているようでならなかった。その中をぼんやりと眺めれば、先ほどの文字がその目に映る。
『…、ここにありき』
ここにありき。ああそうだった。俺は間違いなく此処に在った。そう思うと止められない。男の脳みそは彼の半生を改めて上映し始めた。それは所謂走馬灯というものでもあった。
くだらない内容だった。かつて見た映画の方が何倍も面白い。いや、その名作どころかそこらのB級映画にも勝てやしない。その男にとって、それまでの20年間の人生は無駄と言っても差し支えのないものだった。だったが。
しかし。それでも。確実にそれはあったのだ。誰のものでもない。俺の軌跡なのだ。どれだけ醜かろうと、どれだけみっともなかろうと、俺という者が積み重ねてきた物そのもの。どうして簡単に捨てられようか。
気づけば男は椅子の横でへたり込んでいた。静かに涙を流していた。そうして、死にたくないとうわ言のように漏らしていた。
自分をドライアイだと思ったことはない。そうした類の目薬にお世話になった覚えもなければ、そのつもりもなかった。
だがしかして、目は乾いている。瞬きを忘れていた。視線を外すことができなかった。
自室の椅子に座っていた。眼下に映るは、自身のスマートフォン。画面には多様な色の四角のアイコンが並んでいる。その中で、こちらの目が一途に捧げられているのは緑と白のもの。右上には赤丸がついていて、中に1という数字が入っている。
この赤丸はこちらに語りかける。押しなさい、義務です。
確かにその通りだと思った。腕は動かない。スマートフォンは指を使わなければ動かせない。自分の腕を押さえつける何者かがいるのだと思った。
赤丸は止まない。押しなさい、義務です。
腕は動かない。眉間に皺が寄る。奥歯をきつく噛み締める。背中から汗がどっと湧き出る。暑くはない、寒いほどではある。目はどんどんと痛くなる。腕を押さえている何かは、強情だった。
赤丸は止まない。押しなさい、義務です。
抵抗して、腕を動かした。画面に指が迫る。途端に息が詰まる。体が倒れた時の焦燥に近しいものが、胸を荒らす。体はどこまでも冷えていく。真逆に腹の中は煮え始める。温度差に体が千切れそうだ。指は画面の直前で止まっていた。
赤丸は止まない。押しなさい、義務です。
痛みが限界だった。とうとう目を強く瞑った。染みるような心地良い痛みに切り替わる。気づけば指先に画面の感覚があった。注意が逸れる間に、こっそり重力が赤丸の手助けをしたのだ。
恐る恐る目を開ける。目の前のものを認識する。
『スーパー行くけど、なんか欲しいもんある?』
勢いよく背もたれに倒れ込んだ。深く息を吐いた。体はどうしようもないほど健康に戻っていた。
目を覚ました後の自分が昨日の自分と同じ存在であると、胸を張って言えるだろうか。
記憶の連続性はある。体の構成物質が一夜にして全て入れ替わっているわけでもない。
ただ、意識というもの、思考というものについて、映画のフィルムのように一瞬一瞬存在するものを重ねてつなげているようなイメージを勝手に抱いている。
…分かりずらい?
……ええと、過去とか未来は普通に線上に存在しているけれど、現在というものはその二つの境界線に点状にしか存在しない。それもその位置は固定では無い、…みたいな。
…え、ますますわからない?
………あー、つまりなんだ。例えば今あくびをしたとして、自分があくびをした、と認識した頃には、あくびをした自分はもう既に過去なわけで。
そういう風に現在って、ほぼ一瞬しか存在しないし、気がついたら過ぎ去って過去になってるよね、って。そういうことを言いたい。
あ?自論を展開したいあまりテーマからズレてる?目が覚めた後の自分との同一性云々関係なくなってるじゃん、って?
…君さあ、物事をはっきり言うって言われない?
まとめるとだね、昨日、朝ごはんはパンでいいや、って思ってた自分と、今朝起きてやっぱりご飯が食べたいってなった自分、そんくらい違うってわけ!
おはよう!
「人にされて嫌なことは他人にしてはいけません」
そう言って怒られたことがある。よくわからなかった。怒る理由が無いはずだから。
その時は、あるクラスメイトを殴った日だった。理由はシンプルで、私の机の上に勝手に腰をかけていたから。邪魔だからどいて、と言ってもなんだか笑うばかりで動く気配はなかった。
私はその時、急がなくてはいけなかったから。今すぐ退いて欲しかった。それで面倒だからその子を机から引き摺り下ろした。そしたらギャアギャア煩くなって、耳に障ったから、今度はその子の頬を叩いた。そしたら今度はぴいぴいと別の方向に喧しくなって、先生も駆けつけて、ああ、用事どころではなくなってしまったな、と思った。
私がされて嫌なことはしてはいけないのだから、嫌じゃなかったら何をしてもいいのかしら。
試しに翌日、もう一度殴ってみた。
そうしたら、やめてってその子は泣きながら言ったの。そこで初めて気づいた。この子は殴られるのが嫌なんだ。
人によって嫌なことのラインって色々違うらしい。でもある程度大まかにはなんとなくそのラインっていうのが皆の中で無意識に共有されてるみたい。
私は、ちょっとその「当たり前」からずれてたみたいだった。