不愉快な音が耳を鳴らす。ザアザアと響く一分一秒に僕の心を蝕まれているようで、早く止めよと苛立ちが募り続けていた。
酷い雨。
なんでも十年に一度。
そのような“聞き慣れたフレーズ“で表された本日の空模様は、なるほど確かに最悪の気持ちにさせてくれる。
買ったばかりの靴は泥で汚れる、電車の中は湿度で塗れ、それから喧しい。
極め付けは、隣の人間だ。
「どちら様?」
冷たい声で相手に尋ねる。初対面の相手には無愛想すぎるとは自覚しているが、今の状況くらいは許して欲しいものだった。
「おや、面識がなかったかな。まあいいや。……私はなんというか……ただの彼女の知人だよ」
その場にそぐわない明るすぎる声が返ってくる。お互いに差した傘で、その表情は上手く見えない。見ようとも思わないが。
「……何しにここへ?君のような知り合いがいるとは一切聞いたことがないが」
「何しにって……嫌だなあ。こんな場所、やることは一つでしょう?」
相手の言葉を受けて、改めて目の前を見る。
雨ですっかり濡れた石碑。周囲の色を吸い上げて、視界全てをモノクロに変えてしまったかのような。
彼女の、眠る地。
雨は止む気配がない。地面を抉るかの如く、その体を打ちつけている。体温が奪われたのか、指先に軽く震えが混じる。
「葬式には……君のような人物はいなかった。彼女のクラスメイトにもね」
「忘れてるんじゃない?」
「いいや、あいにく記憶力に自負があるんだ。……それに、彼女は亡くなる二年前から入院していたんだぞ?」
「へえ」
話す口調はお互い平坦だった。かたや感情を押し殺し、かたや恐ろしく冷えているという違いはあったが。
「もう一度言う。君は何者だ?」
「……」
言葉と共に、初めて相手にまともに顔を向けた。相手もこちらへ振り向く。
少年のような、あるいは少女のような見た目をしていた。やや小柄な体格は、妙にフォーマルな白い服とミスマッチを起こしている。その貌には、取ってつけたような笑顔。
僕は、そのまま険しい顔で向き合った。
「……はは!厳しいなあ!そんな怖い顔しなくたって良いじゃない!」
「……」
「怪しすぎるって顔だねえ。安心してよ、ここに来たのは本当にただ彼女を弔うためだけだから」
言葉を言い切るその最後。少しだけ、口調が柔らかくなった。軽く目を伏せ、そのまま続ける。
「彼女はね。私の恩人なんだ。私は彼女に会わなかったら、もしかしたらこうして生きてはいないかもね」
口調はあっさりとしていて、語る言葉と乖離していた。僕は、そんな様子を訝しみながら見つめている。
「別に特別な何かを持っていたわけじゃない。明るくて、でも少しナイーブで、時々馬鹿で、お人好し。……君も、そんな彼女だったから、こうして未だに足を運んでいるんじゃないかな?」
「…………君は」
言葉に詰まる。
「私が何者かって?同じだよ。君と同じ、彼女の知り合いで、……彼女を忘れられないだけの寂しんぼだ」
そうして会話は終わりを迎える。最早互いに言葉は無い。次第に向き合っていたのも直り、再び彼女の眠る先へと視線が移る。
そうして、ただただ知らない誰かと痛みを分かち合っていた。その瞬間だけは、この世界にたった二人のみのように感じられていた。
雨が止む兆しは見えない。
お元気ですか?
最近は桜吹雪もチラホラ見えるようになって、ようやっと春らしさが増してきましたね。普段通る道の側に高校があるのですが、そこの正門辺りの地面が桃色に染まっているのを見ると、私などは思わずノスタルジイな気持ちとなってしまうのです。母校とは一切関係無いのにです。不思議ですよね。
君などは、もしかしたらそこまで女々しくは無いかも知れませんね。
さて、君も不思議に思っているのではと思います。
何せ私自身手紙など書く質では無い事は自覚しておりますし、真面目な作法などはサッパリという有様でありますから、こうしてせめて口調くらいはと慣れない事をしているわけです。
けれど今回はどうしてもこうして伝えたいことがありましたので、多少変に映ってもどうか受け流してくださいね。
覚えておりますか。私らが共に高校を卒業した日……今度は間違いなく母校の方です、そちらの日に二人で記念にとご飯を食べに行きましたね。
「折角だからあの店行ってみよう」そう提案したのは君でした。最寄りの駅ビルの中にあった、あの妙に存在感を放っていた高級フレンチ。大人になった今からするとそこそこぐらいではあったのですが、当時価格を調べた時は二人揃ってひっくり返ってしまいましたよね。
それでも記念だからとコツコツお金を貯めて、高校生の端金で実際行ったのだから、学生のバイタリティとは凄まじいものがあります。
出てきた料理たちは、全く見たことの無いよく分からないものだらけで、私などは「この余白にもっと料理載せてくれたら良いのに」と青い愚痴を零しておりましたね。今更ですがあのお店にはちょっと申し訳なかったですね。
でも、あのお店値段相応の味だったんでしょうか?確かに美味しかったんですが、ここまで取るか?と思ってしまうのは貧乏性です。
春から君は県外へと進学してしまう。それも医療系の大学だって言うから、暫くこうして会えなくなってしまう。
親友との暫しの別れというものに上手く実感を抱けないまま、それでも僅かな寂しさを感じていました。
そうした内心ありつつも、やっぱり君と居るのはとても楽しくて、本当に楽しかったんです。
知っていますか?あのお店、今度無くなってしまうんですよ。
本題に移りましょうか。
君はあのお店を出る時にした私との約束を覚えていますか?先程の話のお店の時です。
六年もの歳月が経っていますから、忘れていても無理は無いかも知れませんね。それでも私はずっと覚えていますよ。君にとっては大したことのないモノかも知れなくとも、私にとってはそれは大切な約束でありましたから。
もし今度余裕があれば、また君に会いたいのです。君は未だに忙しくしているのかも知れませんが、そこまで長大な用事でもありませんから。
ほんの些細な、約束を果たすだけですからね。
長くなりましたが、私からはそれだけです。
すっかり疎遠になってしまいましたが、お互い大人になったと言いましょうか。それぞれの活躍の場があるのだと思います。
どうか体だけ気をつけて、お元気で。
P.S.せっかちな君のことです。こんな内容の薄く長ったらしい手紙の文など読み飛ばしているでしょう。だから簡潔に言いますね。
早よあの時貸した2万返せ。手紙で出してるんだからお前の住所こっちは知ってんだぞ。
逃げられると思うなよ。
「いらないよ、邪魔だし」
人に贈り物をする時、多くの人間は相手の反応を考えると思う。
とても喜んでくれるとか、はたまたちょっと微妙な様子とか。或いはどうだこうだ。性格とか、贈り物の内容にも依るだろう。
しかし「社交辞令」という言葉があるように、しっかりした贈り物を目にした人が取る表情というのは、大抵笑顔であるだろう。
だからこそ、目の前の彼女の言葉に体が固まった。
「いらないって、でも折角の……」
「言ったでしょ。邪魔なのよ。アンタのあげるあげないじゃない。……私がいらないのよ」
ここまでの完全な拒絶など、誰に予想できるものか。少なくとも自分には到底出来ていなかった。
ここに来るまでの少し弾んだ心であるとか、久々に会う楽しみとか、そうした気持ちなど、全て屑のようになってしまった。
しかし、流石にここまでマイナスに振り切れていては、このまま素直に引き下がるのも少ししこりが残る。足は微動だにしないまま、再び口を開くことにした。
「邪魔っつったって、全然スペースあるじゃんか。ほら、ここの窓際とかさ」
「アンタそれ本物の花だろ?置いてどうすんのさ。私は世話できんよ。まさかわざわざ、看護師さんに迷惑かけるつもり?」
「そんなんじゃなくって!別に枯れたってもいいよ!受け取ってくれたらさ!」
ガサリと音を立てながら、そうして私は彼女へと腕を突き出した。
握られているのは満開のカーネーション。今年こそとちょっとだけ奮発して、特別綺麗に仕上げて貰ったのだ。殆ど彩のないこの部屋では、一層目立って華やかな様子を見せている。
「そんな立派なモン枯らしたら今度はもっと苦しいじゃないのよ」
「だからそれでも良いって……」
「私は嫌だから。それに──」
「ああ、ああ言えばこう言う……!もう黙って受け取ってよ!折角の母の日なんだよ?!」
カッとなって怒鳴った私の声で、ヒートアップしていた会話はパタリと止んだ。壁に反響する声が聞こえるような程に、反転して静寂が訪れる。
私は、自分のしてしまった事を理解して、血の気が引き始めた。同時に酷く恥ずかしい気持ちが表れて、顔にばかり熱が籠り始める。
幾ら何でも感情的になり過ぎた。ああ、やってしまった。
内省を促すような静けさの中、ボソリと呟きの声が落ちる。
「……病院では、大きな声は出さないの」
まるで幼い子を諭すような、柔らかい口調。その声を聞いて、私はどうしようもない懐古に襲われた。
「最近、お母さん……」
なんだか変だよ。
今の私には、そこまで発する事は出来なかった。
そもそも、母は元来ここまで屁理屈をこねる人間などでは無いのだ。以前プレゼントを贈った時は、不器用ながらも笑顔で受け取ってくれていた。
彼女がここまでの態度を見せている理由、それは間違いなく────。
「……アンタも、これから人生まだまだ長いんだ。私なんかにもう構わないで良いんだよ」
顔をこちらに背けながら力無く呟く彼女の態度。それは、半年前の父の死によるものだ。
長年連れ添った相手の死は、彼女に人の終わりを大いに意識させ、或いは置いていかれる側の膨大な悲しみを植え付けていった事だろう。
母はそこまで体が強いわけじゃない。そんな矢先に持病が見つかって入院となれば、その意識は更に色濃く増していく。
私に突然素っ気ない態度を取り始めたのも、そこからだ。
……彼女はきっと、自分の死によって悲しむ人を観たくないのだろう。
他でもない彼女が、その悲しみを知っているがために。
私は片手で彼女の手を取った。シワの増えたその手は、血流が悪いのか酷く冷たいように感じられた。
俯きがちにその手を見つめる彼女を、私は一方的に見つめあげる。
「そんなのただ、寂しいだけだよ」
その呟きと共に、素早く彼女の手に花束を握らせ、すぐさま彼女から距離を取った。
咄嗟に反応できなかったのか、花束は直ぐにその手を滑り落ち、病院のベットの上へと落ちる。均一に整えられていた花々も、その衝撃でやや醜く歪んでしまっていた。
「ちょっと、これ……」
「絶対置いてくから。そっちが嫌って言って我儘で拒否するなら、私だって我儘で置いていくもんね」
貴女が例え何度私を突き放そうと、私は絶対くっついていってやる。
貴女が私を悲しませるのが嫌だと思うように、私も貴女に寂しい思いをさせたくないのだ。
「それじゃあね!」
そうして私は悪ガキのように舌を出して笑いつつ、病室から逃げ出した。今回は私の勝ちである。
──出口へと振り返るその狭間。
僅かに見えた彼女の顔には、呆れたような、懐かしい笑顔が浮かんでいた。
緩やかな自殺をしている。
格好つけた言い方だ、と咄嗟に反論を返す。自身をそうして殴りつける裏で、なるほど一理あるなと求道者ぶる自分もコッソリ存在する。それに気づくや否や早速殴り掛かる者がいる。
混沌とした様相をした脳内会議は、何の実益も見込めないだろう。
今自分が分かるのは精々体温を奪う床の温度くらいのもの。しかしながら正確な値は分からない。やはり無力なのだ。
座り込んでどれほど経っただろうか。
時間感覚はとうに消え失せている。今日が何曜日なのかも分からなければ、外を締め出したように薄暗い部屋では、今が昼か夜かも分からない。確認する為の一連の動作すら、今は世界一周の如く過酷なモノにしか思えなかった。
只々、よっぽど素直な腹の臓器の鳴らすSOSを聞き流し続けている。
自覚はしているのだ。このままでは何にもならないと。
動かなければならないのだ。次を見据える為に。
そうした「慰め」も、大した効果にはならなかった。私は私が思う以上に弱い人間であるらしい。
──輝くその瞳が。夢を語るその口が。興奮して赤らむその頬が。所在なさげに動き回るその腕が。私に向けた愛らしいその笑顔が。
貴方の全てが、色濃く残って消えてくれない。
貴方はとにかく旅好きだったから、空の上でも新たな旅を続けているのでしょう。御伽噺のように、幻の秘宝を探し続けているかもしれない。
私は、貴方のようになりたい。強くて、真っ直ぐに進んでいけるような。
貴方が旅を続けたように、私も新しい未来を、輝かしい未来を探すのだ。
……けれども、見つからない。私の“宝物”を示す新しい地図。
ねえ、どこにいってしまったの。
探さなくちゃ。
探さなくちゃいけないのに。
その男にとって、それまでの20年間の人生は無駄と言っても差し支えのないものだった。怠惰。無為。どんな言葉が当てはまろう。ともかく、なんの意味を持ち合わせていないようだった。
俺はこの人生において何か為せるのだろうか。それとも、このまま蛆のように腐り続けて、のうのうと生きながらえるのだろうか。
みっともないのは好きではない。だから、ここいらですっぱり死んでしまおう。ほら、ちょうどキリの良い数字でもあるだろう。
そうして男は早速頑丈なロープを手にいれ、自宅の天井に吊るした。
いつか見た映画を思い出す。仮釈放中に自殺した囚人。彼の遺言。『ブルックス、ここにありき』
その意味を考えず、何となしに真似をすることにした。子供の頃使った彫刻刀を引っ張り出す。目の前の柱に名前だけ変えて雑に掘った。特に感慨もなく掘り終わってしまう。
今際の際である。普段から使い慣れた椅子の上に乗る。固く結ばれた輪が目の前に垂れる。なんだかその輪が特別な力でも持っているようでならなかった。その中をぼんやりと眺めれば、先ほどの文字がその目に映る。
『…、ここにありき』
ここにありき。ああそうだった。俺は間違いなく此処に在った。そう思うと止められない。男の脳みそは彼の半生を改めて上映し始めた。それは所謂走馬灯というものでもあった。
くだらない内容だった。かつて見た映画の方が何倍も面白い。いや、その名作どころかそこらのB級映画にも勝てやしない。その男にとって、それまでの20年間の人生は無駄と言っても差し支えのないものだった。だったが。
しかし。それでも。確実にそれはあったのだ。誰のものでもない。俺の軌跡なのだ。どれだけ醜かろうと、どれだけみっともなかろうと、俺という者が積み重ねてきた物そのもの。どうして簡単に捨てられようか。
気づけば男は椅子の横でへたり込んでいた。静かに涙を流していた。そうして、死にたくないとうわ言のように漏らしていた。