『ありがとう、ごめんね』
その子には翼が生えていた。
オルレアの花弁を思わせるような白い羽。畳んでいる状態でも片翼で大人一人覆うことが出来るほど、その翼は大きかった。その子の小さな体躯には不釣り合いにすら見える。
有翼人。
遥か昔に人と戦い、敗れ、虐げられてきた民族だ。
彼らは富裕層に所有されているため、私は今まで本物を見たことがなかった。だから、初めて目の当たりにする翼の美しさにすっかり心を奪われてしまった。腸を散らかし食されている父親が眼中に映ることは無く、ただただその光景に見蕩れていた。身動きが取れなかった。
「なんて美しいの」
ため息ほどの小さな呟きをその子は聞き取ったらしい。視線を移し私を認めると、目を細めてゆったりと歩んで来た。
「人間からお褒めの言葉を授かるなんて」
花のように甘い声だ。ふふっ、と笑うと同時に翼も揺れる。艶やかな笑みにクラクラした。
「ありがとう」
そう言うと、鉤爪で私の喉を裂いた。
動脈が切れて、ピュッと血が弧を描く。
視界がずりっ、と平行移動した。
「ごめんね。でも──…」
甘い声はぼやけて、すぐに聞こえなくなってしまった。
ただ、血に染まった羽先を見ていた。赤く艶めいて美しかった。
『愛情』
いよいよ気道が狭くなり、私の口からはヒュー、ヒューと木枯らしのような息が鳴った。
特にそうしたい訳でもないのに口が大きく開く。身体は生きるために必死だ。苦しい。けれど、私は今、これまでに無いほどの幸福を感じて泣いていた。
私の首を締め上げているのは、世界一やさしい彼の指だからだ。
──疲れた。
ぽつりと、零してしまった。その呟きに彼は静かに頷いた。悲しげな微笑が脳に焼き付いて離れない。今まで誰にだって、こんなにやさしい瞳で見つめられたことは無い。
「終わりにしようか」
そう言ってくれた。
溢れるほどの愛情に満ちた声。その答え。同情も躊躇も一切無く、共に終わりへ歩んでくれる。嬉しくて幸せで堪らなくなり、彼に抱きついて泣きじゃくった。
それから、天国で式を挙げようと約束をして、婚姻届に印を押した。
『ススキ』
不思議な音がする。
そう言うと、彼の小さな笑い声が聞こえた。
そうだね、と柔らかな返事がひとつ。
さわさわ、さらさら、と鳴り交わす音に、しばらく耳を傾けた。
一定のリズムを持たないそれは、時にざあっ、と強くなったかと思えばするする、と弱くなる。風の若干によって強弱が付き、絶え間なく変化するその音は飽きることがない。いつまでも聞き入ってしまいそうだ。
ふと、気になったことを口にした。
「これは、風の音?」
そう問いかけると、
「まぁ、風の音と言えば風の音だね」
と返ってきた。
明瞭な答えを望んでいた私にとって、その返事は煮え切らないものだった。そこで、さらに問いをぶつけることにした。
「でも、部屋で聞いていた風の音とは性質が違っているわ」
すると彼は、うーん、と低めに唸った。頭の中で言葉を組み立てているらしい。私は彼の説明を待った。
「実は、今聞こえている音は、厳密に言えばススキが揺れている音なんだ」
ススキ?
初めて耳にする言葉を反芻すると、彼は、そう、と相槌を返した。
「背の高い、穂の付いた植物だよ。ちょうどこの時期に、よく草むらに生えているんだ」
彼曰く、群生しているために風に揺られて音を立てるらしい。なるほど、それなら説明がつく。部屋で聞いた音は窓に当たる風の音であり、この音は風によってススキが出す音だったというわけだ。
でも風の音と言っても間違いでは無いよ、と彼は付け足した。
さわさわ、ざあっ、ざわざわ…
間違いでは無いというのは、一般的な風の表現は草木のざわめきで表されることも多いからだと言う。
さらさら、するする、さわさわ…
彼の柔らかな声と、風とススキの二重奏が耳に心地良い。
そのまま、寝入ってしまいそうだ。
ススキはきっと、赤ちゃんのおくるみやクマのぬいぐるみのような色をしているのだと思う。
二重奏は、彼の声のように優しい音色なのだから。
その日。
私の世界に音が増え、
見えない世界に、色がついた。
『あなたとわたし』
例えば、月と太陽。
氷と炎
陰と陽
黒と白
そういう関係は美しいよね、と言ったら
美しいけどつまらないかも、と返された
ではどんな関係がお好きなの?と茶化したら
リボンとコーヒーくらいの、アンタとジブンみたいな、って
くははっ、と笑った
あなたとわたし。
コーヒーと、リボン。
『柔らかい雨』
本部との通信を終了し、端末を押さえていた右腕をだらりと下げる。足の力が抜け、そのまま倒れるように、ぬかるんだ地面へ座り込んだ。
敵部隊の殲滅作戦は成功。救護ヘリを要請し、あとは迎えを待つばかりとなった。
荒れ果てた丘の上には、横たわる彼女と、自分だけ。
周囲の空気は冷たく、音のない雨が大地を濡らしていた。
小糠雨に打たれる彼女は、ただ眠っているようにしか見えなかった。だから、日が昇れば、目を開けて「おはよう」と言ってくれるのではないか、いつものように軽い運動をして、朝飯を食べて──
また新しい一日が始まるのではないか、と錯覚しそうになる。
ギリ、と奥歯を噛み締める。それと同時に涙が頬を伝って、落ちた。
柔らかい雨が、傷に沁みた。