早朝の地下鉄の、暗っぽい車両。
始発の、まだ乗客の少ない、その電車に乗る。
朝帰りの少々草臥れた会社員が、朝まで遊んで家に寝に帰る若い子が、これから会社に向かうスーツ姿の人が、疎らに乗っていた。
ガタンゴトン、ガタンゴトン、規則正しい音と微かな揺れを感じながら、小説を読む。
暑くもなく寒くもない空調、温かくフカフカとした座席、そして静かな車内。
忙しい社会人のちょっとした贅沢トップ10、くらいには入りそうだと、心の中で笑った。
電車が停まり、軽快な電子音とともにドアが開くと冷たい空気がサア、と吹き込んでくる。
肌寒さに身動ぎしていると発車ベルが鳴り、ややあってからドアが閉まった。
駆動音とともに、ゆっくりと動き出す電車。
寒さもなくなり、小説に集中する。
中々に面白く、頁を捲る手が止まらない。
暫くして、ふと、視界の隅の隅に。
何かがいた。
小説の紙面を見ながら、何気なくソレに目をやる。
赤茶けたボブヘア、白地にカラフルな花柄のワンピースを着た女が俯いて、フラりフラりと通路を歩いていた。
なんだ酔っ払いか、とまた小説に集中する。
あと、何駅かで会社の最寄り駅に着く。
読んでいた頁に栞を挟んで鞄にしまい、頭を上げる。
目の前にさっきの女がいた。
首の皮一枚繋がって胸元にまで垂れ下がった頭、ボブヘアだと思っていたのは切れた首から捲れ上がって頭頂部付近で裂けていた皮だった。
女の顔がこちらを向き、ニタリと口角を上げた。
女と見つめ合う形になり動けず、背中から冷や汗が止まらない。
その時、連結部の扉を開けて、カラフルでダボダボの服を着た見るからに輩な男が二人、騒音のような笑い声とともに入ってきた。
ドカンドカンとロングシートを二人で独占し、頭上に吠え叫ぶわ、下ネタを連呼するわ。
女の顔がソチラに向いたスキをつき、閉まりかけた扉から隣の車両に逃げ込んだ。
タイミングよく開いたドアから駅のホームに飛び出る。
女が追いかけてきませんようにと願いながら、足早に階段を上がり改札を通り抜けた。
テーマ「見つめられると」
羽根のような軽るさの白い和毛を、両の掌で包み込んだあの日。
全身の毛をホワホワに逆立てながら、テーブルの上でピャーピャーと鳴いていた君。
皿に入れてやったカリカリをガツガツ食べ、すやすや眠り、思わず笑ってしまったくらい立派なモノをひねり出した君。
庭に飛び出て鳥を追っかける君を、裸足で追いかけたこともあった。
風呂に豪快にダイブして、ブクブク沈んでいく君の首根っこを、慌てて掴んで救出したこともあった。
一つ、年を取るたびに大人になっていく君に、少しだけ寂しくなる。
寝ている時間が多くなった君と一緒に寝そべり、そっと平たい背を撫ぜた。
ほんのりと冷たい滑らかな背を何往復かすると、君は全身を目一杯伸ばして、腹を上にしながら丸まってゴロゴロと喉を鳴らした。
両腕いっぱいに育った、ずっしりと重い君を抱きしめるたびに思い出す。
あの日、掌に感じた、小さいながらも力強い温もりと生命の鼓動を。
テーマ「My Heart」
今を生きるのが辛い者。
病み、或いは老いて、死ぬのが恐ろしい者。
きょう生まれてくる子、懸命に明日を生きようとする者。
人殺し、詐欺師、盗人、障害者、善人、老いも若きも男も女も。
全ての人間を一瞬にして死に至らしめるほどの、絶対の力が欲しかった。
痛みも苦しみも安らぎもない、今際の涙を流す暇も与えぬような圧倒的な力が。
誰にも理解されないだろう。
全てを終わらせることができる、そんな力が欲しかったんだ。
テーマ「ないものねだり」
目の前には、まっさらなキャンバス。
かれこれ2時間、この忌々しい白とにらめっこをしていた。
右手に持った鉛筆を上げては下ろし、また上げては下ろしの、完全に無駄な2時間である。
それもこれも全て、このキャンバスが悪いと私は確信していた。
大体からしてサイズが大き過ぎる、「ちょっと大きいかな?」なんて呑気に電車に揺られて帰ってきたがF20は流石に邪魔だった。
膝の上に立てて持っていたが、電車の外からソレを見たら、足だけの幽霊かと一瞬ギョッとして、隣の車両に移動するだろう。
実際、最寄り駅て降りるまで、誰一人乗ってこなかった。
そのF20のキャンバスを自宅の趣味部屋の壁に立て掛けて、「やっぱデカすぎたかー」と苦笑いしたのが2ヶ月前のこと。
年末年始の忙しなさに感けていたら、気付けば、あと数日で4月に入る頃だった。
下絵はとうに出来ていて、後はソレをキャンバスに描き写していくだけなのだが、なかなか踏ん切りがつかない。
昔から、何も描かれていないところに黒で線を引く行為に、何故だか罪悪感が湧くのだ。
我ながら難儀なことだ、とキャンバスに向かって鉛筆を高速連打するのであった。
テーマ「好きじゃないのに」
よこなぐりの雨を旅館の窓から睨めつけて、ため息を一つ。
ずっと前から、具体的に言うと183日前から楽しみにして、綿密なる計画を立てて指折り数えて本当に楽しみにしていた旅行なのに。
あいにくの雨。ありえないくらい土砂降り。
時折、吹きつけてくる風に薄い窓ガラスがピシピシと鳴る。
山の天気は変わりやすいと云うが、山々を削る薄墨色の雲を見る限り、暫くは止みそうにない。
怨みがましく畳の上を這って座椅子に戻れば、読んでいた文庫本を閉じて君がクスクスと笑った。
しょうがないよ、と差し出された菓子を不貞腐れながらモシャモシャとかじる。
再び本を読みだした君の膝を枕にし、唸り声のような風雨をBGMにして、壁掛け時計の振り子が左右にゆらゆら揺れるのをぼんやりと眺めた。
肩を揺すられ、ハッと目が覚める。
旅館の白い布団から這い出て、そのままヨタヨタと窓辺へ。
キラキラと光る湖面が目にうつる。
安堵の溜息一つ、傍らで怪訝そうに立ち尽くす君に、おはようのハグをした。
テーマ「ところにより雨」