玄関を開ければ途端に聞こえる廊下から裸足で駆けてくる小さな無数の足音たち、少し甘い味付けの彼女の手料理、小さな服を広げた時にふわりと鼻をかすめる柔軟剤の香り、同じ空間で各々が自由に過ごすリビングで流れるバラエティ番組、隣で眠る子どもの体温。
僕は微かに消毒の匂いがする部屋で、規則正しく鳴り響く心電図を眺めていた。意思に反して動かせない身体がもどかしく、視線だけを辛うじて見える青い空へと向けた後に、夢を見るために目を閉じる。
叶うならば、もう一度だけその時間が欲しかった。
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『手放した時間』
両手を合わせて拝んだなら、私の真横を風が駆けて行く。もう私の中の君は、顔も香りもぼんやりと霞んで思い出せないけれど、その突拍子も無い夏の風は、剽軽な君に似ている気がした。
ぼんやりと霞んでしまった記憶の中の君だけれども、夏に吹く元気で自由気ままな風のような君の声を私は忘れやしないのだろう。
線香の細い煙が風に弄ばれて、入道雲に溶けていく。
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『吹き抜ける風』
彼の懐中から光る何かがするりと堕ちる。カツン、と蚊でも鳴くような音は夜のネオンの中で私の耳にしか届いていないらしく、彼は低く弾んだ声だけを私に投げ続けている。
私はふうん、とか、へえ、とか、少しだけ高い声で生返事をしながら地面の方に目をやると、銀色に光るリングが転がっていた。彼の落し物に思わず口角が上がり、私は冷たい息を吐いて、前を歩いていた彼の腕に抱きついた。珍しく機嫌の良い私に彼の表情は驚愕の色をしていたが、やがて薄い笑みを浮かべて何かをべらべら語り出していた。
まあ。なんてちっぽけな愛だ事。
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『tiny love』
ふわり。
僕の身体が宙に浮いた時、君は躊躇なく僕に抱擁しに来てくれた。逞しく温かい腕が僕を包んだとき、風を切る音に混じって君の鼓動が聞こえるのだ。あの時君が僕と共に死ぬことに躊躇しないと優しく笑ってくれた。
地獄のような現世の中で、来世では共に生きようと大きな賭けにでられたこと。僕の人生、それだけで充分です。
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『僕と一緒に』
君の光をいっぱい集めた大きな瞳が、私の手を引く少し冷たい掌が、控えめなサボンの香水が、コントラバスのような落ち着いた安定感のある声が、時が経つに連れて少しずつ記憶の端へ流れ落ちていく。
けれど、私は殆ど残っていない君の残骸を掻き集め、幸せだった日々の欠片を垣間見て人生を歩くばかり。
未練たらしい人、皆は私を笑うのでしょうけれど。
雨がやみませんね。私の中で、いつまでも。
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『君と歩いた道』