薄墨

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11/13/2025, 10:41:13 PM

なんてありふれた陳腐なロマンチックだ、と思う。
『祈りの果て』だなんてタイトルは、行き着く結末がめでたしめでたしで終わるようなグッドエンドでも、どうしようもないバッドエンドだったとしても、意外性なくありふれている。

何せ無難だ。
祈った先にあるのが、不本意な叶え方でも、幸福すぎる結末でも、祈りが聞き届けられなかったという悲壮でも、どれでも“果て”と呼ぶことができる。

くだらない予防線みたいなタイトルだ。
そこまで考えて、涙が溢れてきた。

なぜ、こんなつまらないことを思うようになってしまったのだろう。
理由は明白だ。
これは私の祈りの果ての結果なのだから。

私は作家になりたかった。
皆が驚くような小説を書く感性を持っていたかった。
小説は感性で書くもので、あらすじが何より大切である、と私は信じていた。
だから私は祈り続けた。
「国語のセンスを持つ、文豪のような感性になりたい」と。

祈りは聞き届けられた。
ある日、流れ星が私の祈りを叶えてくれた。

以来、ずっと私は苦しんでいる。
私の文才は、私の感性に遠く及んでいなかった。
研ぎ澄まされた私の感性は、愚鈍な私の文に納得せず、容赦ない指摘をぶつけた。

祈りの果てに、私は何も書けなくなってしまった。

こうして、思ったことをメモのように書き出すだけでも、私の冴えた感性は、黙っていてくれない。
頭の中では、私の感性が「祈りの果て、だなんて、凡才だ、ありふれている」と考える声がわんわんと響いている。

祈りの果てに、私は楽しみを苦しみに変えてしまった。

11/12/2025, 10:42:27 PM

また袋小路だ。
今年で三回目の入院で、白い無機質なベッドに寝転がりながら、そんなことを思った。

私は、迷路は苦手だった。
考えているうちに、知識と感情と思考がごっちゃごちゃになって、どこにも辿り着けなくなってしまう。
右を見ても左を見ても前を見ても、あるのは壁ばかりで、そのうちどこまで来たのかもどこから来たのかもわからなくなる。
私が私である限り、正しいゴールに近づくのは不可能に思えてくる。

私がこの世にいる意味もわからなくなって、袋小路に迷い込む。
そうして退路も何もかもわからなくなって、ぐちゃぐちゃの思考のまま、私はとんでもない間違いを犯してしまうのだった。

こうして、私は精神病棟に戻ってくる。
袋小路だ。
私は私の心の迷路が壊滅的に下手なのだ。

窓の外からは穏やかな空が見える。
真っ青に冴えて、正しい空が広がっている。
私の心は、心の迷路の中から見上げる、狭苦しい空しか知らない。
私の心の中、私の思考が、あの大きくどこまでも広い空を見ることができるのは、いつになるのだろうか。

青い空は清々しく広大に広がっている。
私はベッドの中でそれを見る。
青空が本当に私が見たいものなのか、わからなくなりながら。

11/11/2025, 10:43:59 PM

紅茶を飲み終わった。
空になったティーカップの底に取り残された出涸らしが、ゆうらりと蠢いている。

もう店から出ねばならない。
真っ白な陶器の皿も、保温のためであろうおしゃれなポットの中身もすっかりからっぽで、あとはくずや出涸らしが手持ち無沙汰に底に溜まっているだけだ。

連れはつい十分くらい前に、捨て台詞を吐いて一人退店してしまった。
店の中といっても外なのだから、感情を爆発させるなんて、周りから注目を集めるような愚かなこと、しなければいいのに、と思う。
けれども、連れは公衆の面前で、一方的に私を怒鳴りつけてから出て行ってしまった。

後を追う気にもなれなかったし、ここの紅茶が存外おいしかったので、私は紅茶を飲み切ることにした。
今日の連れは感情が激しく、何かと人を怒鳴りつける、私の知り合いの中でも、ずば抜けて品のない人だった。
今日も急にこの店に呼び出されたと思ったら、愚痴からいきなり矛先がこちらに向き、わたわたしているうちに怒鳴りつけられて、取り残されてしまった。

しかし、彼が愚かというならば、私は馬鹿だった。
昔から、私の脳はいつも30分と持たず、すぐに言われたことや学んだことを忘れてしまうのが常だった。
それに、私は人の感情ということに疎かった。

だから、今の私には、もう彼が私の何に怒って、何に憤慨していたのか、分からなかった。

でも私は、香りにだけは敏感だったから、目下の楽しみの紅茶を楽しむことにしたのだった。
紅茶は美味しかったし、スコーンもよくあったし、白い陶器のティーカップはすべすべと美しかった。

私はティーカップを持ち上げて、紅茶の出涸らしを動かして少し遊んだ。
それから、忘れないように財布と伝票を握りしめて、レジに向かった。

ティーカップはすべすべで白くて、紅茶の香りを纏っていた。
私は店員さんに声をかけた。
紅茶を飲み終わった。

11/10/2025, 2:22:58 PM

寂しくて寂しくて、それだから私は、歌っていたの。
岩場の上で空に向かって、できるだけ美しい声を目指して。
だって歌っている間は孤独を忘れられるから。

北の海には、私の仲間は少なかった。
なんでも遠い昔、私たちの仲間のある子どもが、人間に育てられたのにも関わらず、その人間に売られて非業の死を遂げたらしい。
それで、私たちにとってこの辺りは、心霊スポットでもあり、危険地帯でもあった。

もちろん、それは船にとっても同じことで、だからこの辺には人の気配すらなかった。

だから私は寂しくて、歌を歌っていた。
できるだけ遠くに、できるだけ美しく響くように。

そしたら、ある日、風が強いあの日から、船がやって来るようになった。
私の歌声に惹き寄せられるように船が近づいてきた。

とても嬉しかった。
船は、この海独特の岩礁と高波に揉まれて、最後には、丸ごと海底に沈んだ。
広すぎて寂しい私の家の、貴重なコレクションになった。

それから私は寂しくて寂しくて仕方がない時、歌を歌うようになった。
岩礁に座って、空へ高らかに。
船はひっきりなしにやってくる。

今日も寂しくて寂しくて、私は岩礁のてっぺんに座って、歌を歌う。
きっと今日も船がやってくる。

空はグレーの重たい雲を吊り下げている。
岩礁に歪められた高波の白い飛沫が、私の鱗を濡らす。
波の音と自分の歌声だけが響く空間が寂しくて、私は声を張り上げて歌う。

どこからかきっと、船の警笛が聞こえてくるはず。
私は歌を歌う。高らかに。

11/9/2025, 2:25:19 PM

ヤマアラシのジレンマだね。
樹海の木から降りてきた山猿は、確かにそう言った。
私たち、お互いに心の境界線を踏み越えられないよ。だって棘だらけだもの。
サトリと名乗った山猿は、そんなことを言ってのけた。

その猿に出会ったのは、僕がロープと遺書を握りしめて、樹海に入っていた時のことだ。
めちゃくちゃに木々の間を歩き続け、ぐねぐねと分岐点を曲がり続けて、すっかり右も左も分からないくらい深いところに入って、死ぬのにはうってつけの太い枝を見つけたころだった。

その枝から、スルスルと降りてきた普通の大人の人間くらいの大きさの山猿は、開口一番に言ったのだ。
ヤマアラシのジレンマだね、と。

自分はサトリだ、と、その山猿は名乗った。
ひとまずは信憑性が高い話だ、と、僕は思った。
自殺の名所で、今にも自殺ようとしている人間に山猿が心理学用語を使って話しかけてくる、という状況はあまりにも突拍子のない非現実すぎて信じる気がしないが、人の心を読める妖怪だというサトリが同じようにしているというならば、ともかくも論理は通っている、そう思った。

そんな僕の心すら読んだのだろうか。
サトリは満足気に頷いてから、頼んでもいないのに、自らの生い立ちを語り始めた。

人の心を読み、心の境界線を軽々と踏み越えられるように見える自分を、周りの仲間はみんな気味悪がって、受け入れてくれないこと。
それどころか、恐れ、蔑み、虐めてくるということ。
信頼してくれる人はいなくて、樹海でひっそりと、獣にも満たない生活をしているということ。
自分の心はすっかり荒みきっている、ということ。
そんなことをサトリは滔々と話した。

僕は黙って聞いていた。
サトリが可哀想なやつだと知っても、僕にかけられる慰めの言葉なんてのは、一欠片もなかった。
サトリがどんな言葉を尽くして、どんな弱味を語ったって、僕は彼女に心の境界線を踏み越えさせる気はなかったし、僕だって彼女の心に立ち入る気はなかった。
そんなことができるほどの親切心なんてのは、僕にだって残ってはいないのだった。

サトリはそれが嬉しいようだった。
僕がなんの言葉もかけず、ただぼんやりと話を聞いているのを、満足そうに見つめて、話し続けた。

そうして最後にサトリは言った。
ずいぶん君も荒んでいるんだね。人に親切なんて、はたらいていられないほどに。
気に入ったよ。君ならここで死んでもいいよ。

僕はぼんやりと、この樹海は自殺の名所だけれども、それが知れ渡ったのは最近で、近頃になって、ここで自殺未遂者が何人も“運良く”救われてからだった、ということを思い出した。

それはきっと、この人の仕業だったのだろう。

僕はありがとう、と言った。
感謝なんて感じられる余裕はなかったし、これっぽっちも心は動いていなかった。
口だけが、親切ごかした言い方に、条件反射で従っただけだった。

サトリはいよいよ嬉しそうに、ひっそりと笑った。
陰気だけど清々しい、可愛らしい笑顔だった。

僕はぼんやりと木の枝の下に立った。
遺書を預かるよ。きちんと届けるから。
サトリが言った。

僕はぼんやりとやるべきことを始めた。
君が心の境界線を失くしていて良かった。
サトリはそう言い残して、木々の梢の中に消えていった。

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