なんてありふれた陳腐なロマンチックだ、と思う。
『祈りの果て』だなんてタイトルは、行き着く結末がめでたしめでたしで終わるようなグッドエンドでも、どうしようもないバッドエンドだったとしても、意外性なくありふれている。
何せ無難だ。
祈った先にあるのが、不本意な叶え方でも、幸福すぎる結末でも、祈りが聞き届けられなかったという悲壮でも、どれでも“果て”と呼ぶことができる。
くだらない予防線みたいなタイトルだ。
そこまで考えて、涙が溢れてきた。
なぜ、こんなつまらないことを思うようになってしまったのだろう。
理由は明白だ。
これは私の祈りの果ての結果なのだから。
私は作家になりたかった。
皆が驚くような小説を書く感性を持っていたかった。
小説は感性で書くもので、あらすじが何より大切である、と私は信じていた。
だから私は祈り続けた。
「国語のセンスを持つ、文豪のような感性になりたい」と。
祈りは聞き届けられた。
ある日、流れ星が私の祈りを叶えてくれた。
以来、ずっと私は苦しんでいる。
私の文才は、私の感性に遠く及んでいなかった。
研ぎ澄まされた私の感性は、愚鈍な私の文に納得せず、容赦ない指摘をぶつけた。
祈りの果てに、私は何も書けなくなってしまった。
こうして、思ったことをメモのように書き出すだけでも、私の冴えた感性は、黙っていてくれない。
頭の中では、私の感性が「祈りの果て、だなんて、凡才だ、ありふれている」と考える声がわんわんと響いている。
祈りの果てに、私は楽しみを苦しみに変えてしまった。
11/13/2025, 10:41:13 PM