薄墨

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ヤマアラシのジレンマだね。
樹海の木から降りてきた山猿は、確かにそう言った。
私たち、お互いに心の境界線を踏み越えられないよ。だって棘だらけだもの。
サトリと名乗った山猿は、そんなことを言ってのけた。

その猿に出会ったのは、僕がロープと遺書を握りしめて、樹海に入っていた時のことだ。
めちゃくちゃに木々の間を歩き続け、ぐねぐねと分岐点を曲がり続けて、すっかり右も左も分からないくらい深いところに入って、死ぬのにはうってつけの太い枝を見つけたころだった。

その枝から、スルスルと降りてきた普通の大人の人間くらいの大きさの山猿は、開口一番に言ったのだ。
ヤマアラシのジレンマだね、と。

自分はサトリだ、と、その山猿は名乗った。
ひとまずは信憑性が高い話だ、と、僕は思った。
自殺の名所で、今にも自殺ようとしている人間に山猿が心理学用語を使って話しかけてくる、という状況はあまりにも突拍子のない非現実すぎて信じる気がしないが、人の心を読める妖怪だというサトリが同じようにしているというならば、ともかくも論理は通っている、そう思った。

そんな僕の心すら読んだのだろうか。
サトリは満足気に頷いてから、頼んでもいないのに、自らの生い立ちを語り始めた。

人の心を読み、心の境界線を軽々と踏み越えられるように見える自分を、周りの仲間はみんな気味悪がって、受け入れてくれないこと。
それどころか、恐れ、蔑み、虐めてくるということ。
信頼してくれる人はいなくて、樹海でひっそりと、獣にも満たない生活をしているということ。
自分の心はすっかり荒みきっている、ということ。
そんなことをサトリは滔々と話した。

僕は黙って聞いていた。
サトリが可哀想なやつだと知っても、僕にかけられる慰めの言葉なんてのは、一欠片もなかった。
サトリがどんな言葉を尽くして、どんな弱味を語ったって、僕は彼女に心の境界線を踏み越えさせる気はなかったし、僕だって彼女の心に立ち入る気はなかった。
そんなことができるほどの親切心なんてのは、僕にだって残ってはいないのだった。

サトリはそれが嬉しいようだった。
僕がなんの言葉もかけず、ただぼんやりと話を聞いているのを、満足そうに見つめて、話し続けた。

そうして最後にサトリは言った。
ずいぶん君も荒んでいるんだね。人に親切なんて、はたらいていられないほどに。
気に入ったよ。君ならここで死んでもいいよ。

僕はぼんやりと、この樹海は自殺の名所だけれども、それが知れ渡ったのは最近で、近頃になって、ここで自殺未遂者が何人も“運良く”救われてからだった、ということを思い出した。

それはきっと、この人の仕業だったのだろう。

僕はありがとう、と言った。
感謝なんて感じられる余裕はなかったし、これっぽっちも心は動いていなかった。
口だけが、親切ごかした言い方に、条件反射で従っただけだった。

サトリはいよいよ嬉しそうに、ひっそりと笑った。
陰気だけど清々しい、可愛らしい笑顔だった。

僕はぼんやりと木の枝の下に立った。
遺書を預かるよ。きちんと届けるから。
サトリが言った。

僕はぼんやりとやるべきことを始めた。
君が心の境界線を失くしていて良かった。
サトリはそう言い残して、木々の梢の中に消えていった。

11/9/2025, 2:25:19 PM