薄墨

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11/11/2025, 10:43:59 PM

紅茶を飲み終わった。
空になったティーカップの底に取り残された出涸らしが、ゆうらりと蠢いている。

もう店から出ねばならない。
真っ白な陶器の皿も、保温のためであろうおしゃれなポットの中身もすっかりからっぽで、あとはくずや出涸らしが手持ち無沙汰に底に溜まっているだけだ。

連れはつい十分くらい前に、捨て台詞を吐いて一人退店してしまった。
店の中といっても外なのだから、感情を爆発させるなんて、周りから注目を集めるような愚かなこと、しなければいいのに、と思う。
けれども、連れは公衆の面前で、一方的に私を怒鳴りつけてから出て行ってしまった。

後を追う気にもなれなかったし、ここの紅茶が存外おいしかったので、私は紅茶を飲み切ることにした。
今日の連れは感情が激しく、何かと人を怒鳴りつける、私の知り合いの中でも、ずば抜けて品のない人だった。
今日も急にこの店に呼び出されたと思ったら、愚痴からいきなり矛先がこちらに向き、わたわたしているうちに怒鳴りつけられて、取り残されてしまった。

しかし、彼が愚かというならば、私は馬鹿だった。
昔から、私の脳はいつも30分と持たず、すぐに言われたことや学んだことを忘れてしまうのが常だった。
それに、私は人の感情ということに疎かった。

だから、今の私には、もう彼が私の何に怒って、何に憤慨していたのか、分からなかった。

でも私は、香りにだけは敏感だったから、目下の楽しみの紅茶を楽しむことにしたのだった。
紅茶は美味しかったし、スコーンもよくあったし、白い陶器のティーカップはすべすべと美しかった。

私はティーカップを持ち上げて、紅茶の出涸らしを動かして少し遊んだ。
それから、忘れないように財布と伝票を握りしめて、レジに向かった。

ティーカップはすべすべで白くて、紅茶の香りを纏っていた。
私は店員さんに声をかけた。
紅茶を飲み終わった。

11/10/2025, 2:22:58 PM

寂しくて寂しくて、それだから私は、歌っていたの。
岩場の上で空に向かって、できるだけ美しい声を目指して。
だって歌っている間は孤独を忘れられるから。

北の海には、私の仲間は少なかった。
なんでも遠い昔、私たちの仲間のある子どもが、人間に育てられたのにも関わらず、その人間に売られて非業の死を遂げたらしい。
それで、私たちにとってこの辺りは、心霊スポットでもあり、危険地帯でもあった。

もちろん、それは船にとっても同じことで、だからこの辺には人の気配すらなかった。

だから私は寂しくて、歌を歌っていた。
できるだけ遠くに、できるだけ美しく響くように。

そしたら、ある日、風が強いあの日から、船がやって来るようになった。
私の歌声に惹き寄せられるように船が近づいてきた。

とても嬉しかった。
船は、この海独特の岩礁と高波に揉まれて、最後には、丸ごと海底に沈んだ。
広すぎて寂しい私の家の、貴重なコレクションになった。

それから私は寂しくて寂しくて仕方がない時、歌を歌うようになった。
岩礁に座って、空へ高らかに。
船はひっきりなしにやってくる。

今日も寂しくて寂しくて、私は岩礁のてっぺんに座って、歌を歌う。
きっと今日も船がやってくる。

空はグレーの重たい雲を吊り下げている。
岩礁に歪められた高波の白い飛沫が、私の鱗を濡らす。
波の音と自分の歌声だけが響く空間が寂しくて、私は声を張り上げて歌う。

どこからかきっと、船の警笛が聞こえてくるはず。
私は歌を歌う。高らかに。

11/9/2025, 2:25:19 PM

ヤマアラシのジレンマだね。
樹海の木から降りてきた山猿は、確かにそう言った。
私たち、お互いに心の境界線を踏み越えられないよ。だって棘だらけだもの。
サトリと名乗った山猿は、そんなことを言ってのけた。

その猿に出会ったのは、僕がロープと遺書を握りしめて、樹海に入っていた時のことだ。
めちゃくちゃに木々の間を歩き続け、ぐねぐねと分岐点を曲がり続けて、すっかり右も左も分からないくらい深いところに入って、死ぬのにはうってつけの太い枝を見つけたころだった。

その枝から、スルスルと降りてきた普通の大人の人間くらいの大きさの山猿は、開口一番に言ったのだ。
ヤマアラシのジレンマだね、と。

自分はサトリだ、と、その山猿は名乗った。
ひとまずは信憑性が高い話だ、と、僕は思った。
自殺の名所で、今にも自殺ようとしている人間に山猿が心理学用語を使って話しかけてくる、という状況はあまりにも突拍子のない非現実すぎて信じる気がしないが、人の心を読める妖怪だというサトリが同じようにしているというならば、ともかくも論理は通っている、そう思った。

そんな僕の心すら読んだのだろうか。
サトリは満足気に頷いてから、頼んでもいないのに、自らの生い立ちを語り始めた。

人の心を読み、心の境界線を軽々と踏み越えられるように見える自分を、周りの仲間はみんな気味悪がって、受け入れてくれないこと。
それどころか、恐れ、蔑み、虐めてくるということ。
信頼してくれる人はいなくて、樹海でひっそりと、獣にも満たない生活をしているということ。
自分の心はすっかり荒みきっている、ということ。
そんなことをサトリは滔々と話した。

僕は黙って聞いていた。
サトリが可哀想なやつだと知っても、僕にかけられる慰めの言葉なんてのは、一欠片もなかった。
サトリがどんな言葉を尽くして、どんな弱味を語ったって、僕は彼女に心の境界線を踏み越えさせる気はなかったし、僕だって彼女の心に立ち入る気はなかった。
そんなことができるほどの親切心なんてのは、僕にだって残ってはいないのだった。

サトリはそれが嬉しいようだった。
僕がなんの言葉もかけず、ただぼんやりと話を聞いているのを、満足そうに見つめて、話し続けた。

そうして最後にサトリは言った。
ずいぶん君も荒んでいるんだね。人に親切なんて、はたらいていられないほどに。
気に入ったよ。君ならここで死んでもいいよ。

僕はぼんやりと、この樹海は自殺の名所だけれども、それが知れ渡ったのは最近で、近頃になって、ここで自殺未遂者が何人も“運良く”救われてからだった、ということを思い出した。

それはきっと、この人の仕業だったのだろう。

僕はありがとう、と言った。
感謝なんて感じられる余裕はなかったし、これっぽっちも心は動いていなかった。
口だけが、親切ごかした言い方に、条件反射で従っただけだった。

サトリはいよいよ嬉しそうに、ひっそりと笑った。
陰気だけど清々しい、可愛らしい笑顔だった。

僕はぼんやりと木の枝の下に立った。
遺書を預かるよ。きちんと届けるから。
サトリが言った。

僕はぼんやりとやるべきことを始めた。
君が心の境界線を失くしていて良かった。
サトリはそう言い残して、木々の梢の中に消えていった。

11/9/2025, 6:17:58 AM

私が大学三年にもなって、登山部に入ったのは、あの子のことが知りたかったからでした。
あの子というのは、ほら、先日事件を起こした、うちの大学生だったあの子のことです。
私とあの子は友達だったのです。
学年は離れていましたけど。

実は私は、事件が起こる数日前、あの子に会っていたんです。
あの子は登山を趣味にしていて、その日はちょうど、あの子があの山に無事登り終えて帰ってきた次の日のことでした。
その日突然、あの子に呼び出されたのです。
私はなんの心当たりもないまま、あの子の呼び出しに応じました。

あの子は以前から、精神的に不安定なところがありましたし、私も先輩として放っておけなかったのです。
それに、あの子が先日登ってきたあの山は、うちの大学の登山部が、毎年合宿で登る山でした。
私はその時期、登山部にできたばかりの恋人がいましたので、_ええ、例の事件に巻き込まれたあの彼です_まあ、そういうわけでしたので、私もあの子のお土産話も聞きたかったのです。

待ち合わせ場所のカフェに座っていたあの子は、一目見た時から、ずいぶん遠い目をしていました。
まるで白昼夢でも見ているかのようなぼうっとした顔でした。普段、外では、活発か、さもないと躁で賑やかな子でしたので、そんな顔を見たのは初めてでした。

私が向かいに座ると、束の間ハッとしたような顔をして熱心に語り始めました。
それはあの山の頂上で見た景色の話でした。
とても現実の話とは思えませんでした。

あの子は透明な羽根を見たのだ、と言いました。
透明な羽根を辿っていくと、そこは山頂の崖端で、そこには透明な翼を持った人間がいたのだ、と言うのでした。
そして、あの子が見ている前で、透明な翼を持った人間はふわりと笑うと、崖端から翼をはためかせて飛び立った、と、そう言うのでした。
それがとても美しかった、忘れられない、と、あの子は熱っぽい口調で、話し続けるのでした。

私は、とうとうあの子が壊れてしまったのだ、と思いました。
おそらく、山頂でタイミング悪く飛び降り自殺を眼の前で見て、そのショックを忘れるために、記憶を書き換えてしまったのだ、と、そう思いました。
どうにかしてメンタルクリニックに連れて行かなくてはならない、そう思いました。

そんなこんなを私が一生懸命に考えているうちに、あの子の話は最終盤へ差し掛かっていました。
あの子は、透明な羽根が忘れられないのだと言いました。
あの羽根を、あの翼をもう一度見にいくのだ、そう言いました。

私は泡を食って止めにかかりました。
言葉を並べたて、必死にあの子を止めました。落ち着いて、一度家に帰ろう、せめて1週間ほど休んで疲れを取ろう、と提案しました。
ところが、どういうわけかあの日、あの子は強情で、なんといっても首を縦に振りませんでした。

あの子は登山に対して、それから私の方へは何も言ってくれずに私たちは別れました。
そして、私が預かり知らぬうちに、あの子は登山準備を整えて、翌日にあの山へ向かってしまいました。

あの子はそういえば、私に言っていました。
「先輩にもきっと、あの透明な翼があるはずです。私には分かるんです。」

そうしてあの子はあの山に出かけ、私がまだあの子が山に出かけたことすら知らぬうちにあの事件が起きました。

あの子は逮捕され、私はできたばかりの彼氏を失いました。
あの子の裁判は今も続いているそうですね。
あの子があの日、心神喪失だったのか、そんなところが面倒だということで、長引いているのだ、と、最近、ニュースで知りました。

そのときに私はふっと、あの透明な羽根の話を思い出したのです。
あの子が私に最期にしていった、あの話を。
そして、あの子がきっと二度登ったであろう、あの山の話を。

それで、私は登山部に入る決意をしました。
就活も講義も、何もかも放り出す覚悟で入部し、今も仲間に追いつけるように、必死でトレーニングを続けています。
幸い、今年の合宿はまだ先です。
熱心な私はもう数ヶ月すれば、他の部員と共に、あの山に行けるでしょう。

今、それだけが私の楽しみで、希望です。
あの子を狂わせた、透明な羽根を見られるかもしれない、ということだけが。

11/8/2025, 3:45:25 AM

「焚き火の上で杖を一振りすると、あっという間に雪は溶け、木の葉は茂り、植物はみなすずなりに実をつけはじめました。」
昔話のそんな一説を、みんなで灯火を囲んで聴いた。

“楽園”には学校がなかったから、お話を聴くのはいつも一日が終わった日暮れの時間で、子どもたちはみんな、もう力仕事ができなくなってしまった、“口ばかり”と呼ばれる話し手の家に集まって、昔話を聴いたんだよ。

こうやって、ロウソクか、囲炉裏の火か、何かしらの灯火を囲んでみんなで話をしたものだ。

あの時はまだ楽園も万全な体制で、楽園内で反乱者なんて信じられないくらい治安が良くて、政府への不平不満なんかもなくて、楽園が、それ以外の土地からやっかみを受けるくらい栄えていた時だった。

楽園内はいつだって明るくて、賑やかで、移住者に溢れていた。
本当さ。
今じゃ、見る影もないがね。

こうなってしまったきっかけは、意外と最近だが、今から3年前のことだ。
ある人間がね、11月を怒らせてしまったんだよ。
あの大きな焚き火のもとで。
灯火を囲んでいた月たちに失礼を働いた人間がね。

その人間は一応、人間の暮らす楽園地域の代表ってことになっていたから大変だ。

それからこの地域は、永遠に11月が続くことになった。
秋が延々と続くんだよ。
それはそんなにいいものじゃないさ。

土が栄養を蓄える冬も、植物が成長する夏も、動物が恋をする春も、来なくなってしまったんだから。
今じゃ楽園は、ただ紅葉だけが色づく、ただの秋山に成り下がってしまった。

昔は楽園の人間も、こうして灯火を囲んで話していたものさ。
楽園の人間だけでなく、精霊も、獣も、私たち蓑虫だってね。
今では、この地に住み、灯火を囲んで話す余裕があるのは蓑虫ばかりになってしまった。悲しいことにね。

さあさ、これで私の辛気臭い昔話は終わりだよ。
客人も、しばらく灯火を囲んで温まっていくといい。
11月は案外、冷えるからねえ。

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