薄墨

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私が大学三年にもなって、登山部に入ったのは、あの子のことが知りたかったからでした。
あの子というのは、ほら、先日事件を起こした、うちの大学生だったあの子のことです。
私とあの子は友達だったのです。
学年は離れていましたけど。

実は私は、事件が起こる数日前、あの子に会っていたんです。
あの子は登山を趣味にしていて、その日はちょうど、あの子があの山に無事登り終えて帰ってきた次の日のことでした。
その日突然、あの子に呼び出されたのです。
私はなんの心当たりもないまま、あの子の呼び出しに応じました。

あの子は以前から、精神的に不安定なところがありましたし、私も先輩として放っておけなかったのです。
それに、あの子が先日登ってきたあの山は、うちの大学の登山部が、毎年合宿で登る山でした。
私はその時期、登山部にできたばかりの恋人がいましたので、_ええ、例の事件に巻き込まれたあの彼です_まあ、そういうわけでしたので、私もあの子のお土産話も聞きたかったのです。

待ち合わせ場所のカフェに座っていたあの子は、一目見た時から、ずいぶん遠い目をしていました。
まるで白昼夢でも見ているかのようなぼうっとした顔でした。普段、外では、活発か、さもないと躁で賑やかな子でしたので、そんな顔を見たのは初めてでした。

私が向かいに座ると、束の間ハッとしたような顔をして熱心に語り始めました。
それはあの山の頂上で見た景色の話でした。
とても現実の話とは思えませんでした。

あの子は透明な羽根を見たのだ、と言いました。
透明な羽根を辿っていくと、そこは山頂の崖端で、そこには透明な翼を持った人間がいたのだ、と言うのでした。
そして、あの子が見ている前で、透明な翼を持った人間はふわりと笑うと、崖端から翼をはためかせて飛び立った、と、そう言うのでした。
それがとても美しかった、忘れられない、と、あの子は熱っぽい口調で、話し続けるのでした。

私は、とうとうあの子が壊れてしまったのだ、と思いました。
おそらく、山頂でタイミング悪く飛び降り自殺を眼の前で見て、そのショックを忘れるために、記憶を書き換えてしまったのだ、と、そう思いました。
どうにかしてメンタルクリニックに連れて行かなくてはならない、そう思いました。

そんなこんなを私が一生懸命に考えているうちに、あの子の話は最終盤へ差し掛かっていました。
あの子は、透明な羽根が忘れられないのだと言いました。
あの羽根を、あの翼をもう一度見にいくのだ、そう言いました。

私は泡を食って止めにかかりました。
言葉を並べたて、必死にあの子を止めました。落ち着いて、一度家に帰ろう、せめて1週間ほど休んで疲れを取ろう、と提案しました。
ところが、どういうわけかあの日、あの子は強情で、なんといっても首を縦に振りませんでした。

あの子は登山に対して、それから私の方へは何も言ってくれずに私たちは別れました。
そして、私が預かり知らぬうちに、あの子は登山準備を整えて、翌日にあの山へ向かってしまいました。

あの子はそういえば、私に言っていました。
「先輩にもきっと、あの透明な翼があるはずです。私には分かるんです。」

そうしてあの子はあの山に出かけ、私がまだあの子が山に出かけたことすら知らぬうちにあの事件が起きました。

あの子は逮捕され、私はできたばかりの彼氏を失いました。
あの子の裁判は今も続いているそうですね。
あの子があの日、心神喪失だったのか、そんなところが面倒だということで、長引いているのだ、と、最近、ニュースで知りました。

そのときに私はふっと、あの透明な羽根の話を思い出したのです。
あの子が私に最期にしていった、あの話を。
そして、あの子がきっと二度登ったであろう、あの山の話を。

それで、私は登山部に入る決意をしました。
就活も講義も、何もかも放り出す覚悟で入部し、今も仲間に追いつけるように、必死でトレーニングを続けています。
幸い、今年の合宿はまだ先です。
熱心な私はもう数ヶ月すれば、他の部員と共に、あの山に行けるでしょう。

今、それだけが私の楽しみで、希望です。
あの子を狂わせた、透明な羽根を見られるかもしれない、ということだけが。

11/9/2025, 6:17:58 AM