秋風の吹く日だった。
その日には既に、世界は終わりに向けてまっしぐらに進んでおり、まるで皺寄せみたいに脅威が押し寄せていた。
信じられないことだったが、数日前から、あらゆるB級パニック映画を観た日の夜に見る夢のような、チープだけど確実な絶望が、笑っちゃうくらい一度に起こっていたのだった。
その頃の外ときたら、酷いものだった。
人に擬態した何某らが人を殺して周り、致死性の高い感染症が蔓延し、凶暴化した家畜や身近な野生動物がいきなり襲いかかってきたり、空間がいきなり歪んで人を飲み込むような真っ暗な大穴が口を開けたり、お金も言語も意味をなさなくなったり、人を助けるという口実で好き放題やり出した組織が生き残りの人たちをも支配したり…と、もはや手がつけられないほど、人間らしい生活というものは破壊され尽くしていた。
僕はそんな世界の中で、かつて通っていた高校で、まだ生きていた。
真っ先に死んでいてもおかしくないほど、サバイバル能力が皆無な僕だったが、最初の惨事が起きた頃に、高校の文化祭に出ていたおかげで、素早い避難と賢明な進学校の教師と生徒の的確な指示を享受して、一命を拾ったのだった。
だから、正確に言えば、この時点で秋風なんて感じられるほどの文化的余裕は、もはや大半の人類には許されていなかった。
ただ、僕は惨事が起こったあの日が、文化祭真っ只中の秋の1日であったことを記憶していたために、今が秋であることを知っていただけなのだった。
そんな秋の日のことだった。
僕は飲み水をとりに、校舎外へ出ていた。
もはや、上下水道は機能しておらず、水は節約しながら使って、危険を顧みながらも、雨水などを外に取りに行くしかなかったのだ。
久しぶりに出た外の風は涼しくて、でも冷たくはなく、それで、僕は改めて、今が秋であることを思い出した。
茶色くなった木の葉が、秋風に踊らされていた。
そんな秋風が吹く日だった。
最初に気づいた異変は、水面にあった。
水面にバケツの淵をつけると、透明でありながらなぜか分厚く硬い手応えを感じた。
改めて水面を見やると、まるでガラスのように細波すらなく、固まっていた。
けれども、生きていくためになんとしても水は必要だった。
その頃の僕はもう、化学的な知見とか、冷静な頭脳とか、そんな悠長なものはもう忘れてしまっていた。
だから、僕は無謀にも、水面を突破しようと、バケツを持つ手にさらに力を込めた。
そのときだった。
あの化け物が現れたのは。
ブドウ球のように、丸々とした眼球が集まったような怪物が、ゆっくりと校舎の裏から見え始めた。
校舎よりもずっと高く、ずっとデカい、戦隊モノに出てくる怪物のような化け物だった。
絶望はあった。
しかし、それより、何より強く僕の体を揺すぶったのは、その怪物に対する異様なまでの懐かしさ、だった。
僕は、あの怪物とは友達であったような気さえした。
彼と僕とは、心の通じ合った、親友だった。
そうだとしか思えなかった。
僕は、旧友との再会に、喜び打ち震えていたのだった。
そして、ソレは近づいて来ていた。
校舎の裏から、ゆっくりと。
秋風が、茶色い落ち葉を巻き上げて、僕と怪物の間を吹き抜けていった。
滑り込んできた電車に乗って、窓際に立つ。
文庫本を開き、蛇足的あとがきを読み流しながら、発車を待つ。
すぐに扉が閉まり、がたん、とひと揺れして、電車が動きだす。
電車に揺られながら、文字を目で追う。
僕が今読んでいる本は、正真正銘、つまらない本だった。
だからこそ、僕は普段読まないあとがきなんてとこに目を通していたのだった。
向かいの扉を、本ごしにちらりと覗く。
変わり映えのしない、見慣れた町がみるみる通り過ぎていく。
それにしても、どうして面白くない本ほど、あとがきも自己顕示欲が滲み出して癪に障るのか。
久々に、高尚でもなんでもない、ただくだらないだけの小説が読みたかったのに、そういう、ナンセンス的な本は選ぶのが難しい。
意を決して選んだこの本は、くだらないことを長ったらしく難しく、中途半端に高尚な結末に繋げようとしていて、くだらなさなど楽しめない、退屈な本だった。
電車に揺られながら、僕は退屈していた。
この本のつまらなさを予感できなかった自分の不甲斐なさに、悔しさを覚えた。
今日はなんだかいつもと違うような予感がしていたのだが。僕の予感はアテにならないようだ。
ただ、字の上に視線を滑らせながら、電車に揺られる。
電車は通過駅をとっくに通り越して、次の停車駅に差し掛かっていた。
電車が止まる。
向かいのドアが開く。
そのとき僕は思い知った。
僕の予感は、外れていなかったことを。
どうやら僕の第六感は鋭かったみたいだ。
お弁当の漬け菜噛み、あの子のことをふと思い出す。
味噌汁を啜る。
あの子は友達だった。
学校で初めてできた友達だった。
受験の日、テストの合間の休み時間に、言葉を交わして、意外と話が弾んでしまって、なりゆきで友達になった。
学生時代はいつも一緒だった。
移動教室も、休み時間も、昼ごはんも、部活も。
うんざりするほど一緒だったけど、その時間がやけに心地よかった。
けれど、友達なんて所詮、そんなものだ。
一緒に共有する時間だけが、私たちの仲の全てだった。
私とあの子は、仲が良くて一緒に過ごすだけで、目指す場所も目標も幸せの形も何もかも違う。
けれど、どんな学生生活を過ごしたいか、という一点に置いて、私たちの理想は一致していた。
だから、私たちは、いちばんの友達だった。
楽しい日はあっという間に過ぎる。
私たちは友達だ。
学生時代において、誇張なしにbest friendsだった。
今でも連絡を取り合い、一年に一回は遊ぶほど、私たちはbest friends。
しかし、親友とは違う。
私には、親友ができた。
幸せの形が似通っていて、職場でも頼れる唯一無二の友達が。
あの子にもきっと出来ただろう。
私よりずっと気の合う親友が。
しかし、私たちは今でも仲良しだ。
あの頃と同じように。
同じ時間を分け合い、同じ時代を過ごした最高のbest friends。
そうして、私たちはお互いに、それだけで満足なのだった。
あの子のいない昼休みを噛み締めながら、お弁当を食べ終える。
もうあの頃の私たちはいない。
しかし、私たちは今でも形を変えてfriendsなのだ。
文の用 秋草分けて 探し書く
とく読みたくて 君が紡ぐ歌
糸縒りて 紡ぐ衣は まだ薄し
君が紡ぐ歌の ごとき夏服
クロード・モネはきっと、光と霧の狭間で世界を見ていたに違いない。
曖昧な輪郭の中に、空気と光の動きが閉じ込められている気がする。
美術館の中は静かだった。
観覧者は珍しいことに、私一人だけで、あとは学芸員たちが、アートの一部かのように、寒そうに、片隅に座っていた。
私は、ゆっくりと静謐の中を歩いた。
絵画はどれも、何かを伝えるように沈黙して、穏やかな光と霧の狭間の世界を見せつけていた。
私は荷物を持ち直し、ゆっくりと歩いた。
足音が染み込んだ床のカーペットは、私の歩いた音さえも、例外なく飲み込んだ。
どこからともなく、冷房の、冷たい風が吹きつけた。
くしゃん、と、静かに座っていた学芸員がくしゃみをし、あわてて膝掛けを取り出した。
窓がない展示室だったが、光も霧も影さえも、それは絵画の中に、静かにあった。
私はゆっくりと静謐の中を歩いた。
クロード・モネはきっと、光と霧の狭間で世界を見ていた。
そう確信を持って。