その日は、あいつの誕生日だった。
いつものように不安に駆られたあいつに呼び出されて、僕らはいつものように、しこたま飲んだ。
そして程よく酔っ払ったあたりで、僕はいつもあいつを慰める時とおんなじように、あいつに向かって両手を広げた。
僕より10センチも上背のあるあいつは、それなのに、赤ん坊みたいなところがあって、あいつは何かを抱き締めないと、泣くことも怒ることもできなかったのだ。
だから、こういう時は、友人である僕が、その役目を請け負っていた。
しかも、本人はシラフで友人に抱きつくとか、そういうのは気まずいと気にする方だったから、必ず酒を入れてから。
都合のいいことに、僕の方が酒には強かったし、あいつは絡み酒だった。
というわけで、今日もまたいつもと同じように、僕は、あいつの口が多少滑らかになったところで酒を切り上げて、あいつに抱き締められる準備を整えた。
そのうちに、あいつが黙り、沈黙が訪れる。
そうして、正面から、ずっしりと、我が友人の体重がのしかかる。
重たいあいつの頭が僕の肩にふってくる。
耳は嫌でも、あいつの耳の横にあり、だから僕は、耳を澄ませるまでもなく、あいつの動向を聞くことができる。
砂時計の音が部屋に響く。
静寂の中の砂時計の音が伴奏だったかのように、不意にあいつの控えめな啜り泣きが、鼓膜を震わす。
あいつが泣いている。
ギリシャ神話の船の名を冠するその星座は、大きすぎるが故に、星図から消えた。
アルゴ船という輝かしい名を持ったかつての星図は、部品ごとにバラバラに分割されて、とうとうアルゴ船というかつての名前を失ってしまった。
消えた星図のアルゴ座は、今、それぞれの部品_りゅうこつ座だの、とも座だの、ほ座だの、らしんばん座だの…_に分かれて記録されている。
まるで座礁し、ぶつかり、部品ごとにバラバラに分割されて沈没した船のように、今の星図では、船の部品が、独立して空に浮いている。
じりじりと蒸し暑い夜空を眺める。
南の孤島で見る空には、まるで、誰かがヤケになって砂をぶちまけてしまったかのように、無数の星が散りばめられている。
私は、真っ暗なコンクリートの道路に寝そべって、無数の星に目を凝らしていた。
この限られた時間を有効活用しようという気は全く起きなかった。
起き上がるための希望も気力も体力も、もはや私には残っていなかった。
私は、空っぽだったのだ。
私は、死にに来たのだった。
感情の起伏がほとんど凪のようで、外界刺激に何も反応できないつまらない人間というのが、私だった。
私はつまらない人間だった。
友達や家族や…私と一定以上の関わりがある人間は、皆私の事をなるだけ避けた。
私が感情や想いを分かりやすく訴えることがなかったからだ。
何をしても反応らしい反応を返さず、暖簾に腕押しな私を愛するものは、誰もいなかった。
実際、私はどんなに絶望していようと、人や世界を恨むことはなかったし、
また、どんなに幸せな日常を送っていようと、希死念慮が薄れたことはなかった。
私はどうしようもなく、平坦で、無個性で、つまらない人間だった。
そんなところに嫌気がさしていた。
私と関わるものは、そんな私の性格を、悟りであり、“大人である”証拠と見做した。
“器が大きく、大人びており、落ち着いた人間”である、と、みな、私を褒めた。
私はそれにうんざりしたのだ。
うんざりして、どうにでもなれ、と思って、日常から抜け出してこの島まで、逃げ出してきたのだ。
死ぬために。
人口が少なく、交通の便が悪い南の島は、しかしそのおかげで、美しいほどの静謐さと眩いほどの星空を持ち合わせていた。
だから、私は星空を見つめることにしたのだ。
そして、不意に、あの星図のことを思い出したのだ。
大きい体を持っていたが故に、バラバラに分解されて、消えた星図のアルゴ座を。
私は車道に寝そべったまま、ぼんやりとアルゴ座の残骸を見つめた。
星はびっしりと夜闇を埋め尽くし、またたいている。
アルゴ座の部品たちも、ひしめき合う星と星の間で、窮屈そうに所在なさげに浮いている。
蒸し暑い夜風が、滑らかに吹く。
消えた星図の残骸が、無数の星に埋もれて輝いている。
それはなんだか、私の惨めでやるせない希死念慮に満ちた気持ちを、少し慰めてくれている気がした。
私はじっと、星図を目で辿る。
遠くで、何かの虫が鳴いていた。
「愛−恋=?」
写真映えを狙ってか、黒板アートにでかでかと書かれたそんな落書きを見たとき、僕は鼻白んだ。
この等式は成り立たないだろう、そう思った。
なぜなら、愛に必ずしも恋が含まれていることはないからだ。
最初から含まれていない要素を取り除こうとしても、それは物理的にできることじゃない。
式の答えを出す前に、この式に当てはめられた「愛」に「恋」が含まれているかどうかを検討しなければならないだろう。
0から1を引くということが、物理的に難しく、実現するためにはまずその整数が1以上であるかを確かめなくてはならないように、この等式を解くためには、まず、愛を確かめなくてはならないだろう。
そこまで一人で考えて、結局僕は黒板の式を写真に収めた。
厳密に考えるとおかしい等式でも、思春期真っ只中の、青春臭い文化祭に参加している高校生の僕の今を表すには、ぴったりの等式だと思ったからだ。
やたら爽やかで押し付けがましい青春の臭いを充満させたその黒板を、いくつか別の角度で写真に収めてから、僕は部屋を出た。
「愛−恋=?」
黒板にデカデカと白く書かれていたあの式は、写真を見返さなくとも、僕の網膜に焼き付いている。
?の下の点が赤チョークのハートになっていたところまで、くっきりと覚えがあった。
僕は、あの等式について考える。
恋愛というからには、確かに恋が含まれる愛もたくさんあるのだろう。
しかし、恋を伴わない愛は、恋を含む愛以上に多様に、たくさんあるはずだ。
恋みたいに、相手の長所や個性に惚れ込んで愛を抱かなくても、
そんなものは関係なく、ただ関わり合いがあるというだけで、無条件に抱ける愛だってある。
たとえば、知り合いのどうしようもない悪童や変わった問題を抱える小学生にも、関わりがあるというだけで、どうにか幸せになってほしいと思ってしまうような感情。
たとえば、なんとなく気が合う、ただ年齢が近いから一緒にいるようになった友人に、できるだけ楽しんで喜んでほしいと願うような想い。
たとえば、複雑に絡み合った面倒臭い関係だけれども、長年そばで見てきたものだから、なんとかして幸せな関係性にしてやりたいと切に願うような気持ち。
それだって、愛と呼べるはずだ。
校舎を出る。
イベントを取り行っているときの高校には、青春の臭いが、やたら充満している。
エモさと映えと爽やかなエネルギッシュさをごちゃ混ぜにした、騒がしくて押し付けがましい匂いが、充満している。
その青春臭さをファインダー越しに眺めて、シャッターを切る。
写真部として、青春の青臭い一瞬を閉じ込める。
そうすれば、押し付けがましく鬱陶しい青春臭さが、少しマシになるような気がするから。
僕は、カメラを抱えて、一人で文化祭を回る。
高校の敷地内は、どこもかしこも喧しい青春で埋め尽くされている。
「梨が時期物だったこと、すっかり忘れてたわ」
ざらざらとした、ほんのりと赤い黄褐色の皮を剥きながら、彼女は言った。
梨を剥く彼女の包丁の、するりとした刃音を聞きながら、根菜煮に入っていた蓮根をつまむ。
しん、と残った固さが、しくしくと歯に楽しい。
「秋はこの時期にしか食べられないような旬が多すぎて困るわ。まだ栗もしてないし」
器用に刃を滑らせながら、彼女が呟く。
いびつに丸いにんじんを箸で割る。
ほこほことした根菜煮は、深くて濃い秋の味をしている。
しめじと割ったにんじんを箸先で摘んで、口に入れる。
口をすぼめて、猪口に口をつける。
「梨も柿も、水分たっぷりだから、お酒好きのあなたの食後に、丁度いいわ」
彼女の手元で、梨はもう半分皮を脱ぎ捨てて、白くぬめらかな肌を外気に晒している。
私は、秋を口いっぱいに頬張ったまま、ゆるく頷く。
「私、あなたがお酒を飲んでいるところが好きよ」
つるり、と梨の皮を切り離して、彼女はふわりと微笑んだ。
どう答えていいか分からないことを、口の中に含んだ秋の食材たちのせいにして、私は沈黙する。
喉がごくん、と音を立てる。
まるで、私の心の内を見抜いたように、彼女は目を細めて、ゆったりと笑う。
さっき感じた照れや愛しさや決まりの悪ささえも伝わってしまったような居心地の悪さを感じて、思わず口を開いてしまう。
気の利いた返事も思い浮かばないのに。
「…ありがとう」
結局、出たのは、よく分からない返答だった。
しかし、彼女は満足そうに、笑みを深くして、にこにこ私を見つめる。
それから彼女は梨を切って、皿に並べる。
熟れた赤い柿と、みずみずしい白い梨とが、小鉢の中に寄り添っている。
「私、あなたが食事しているのを見るのも好きよ」
彼女が微笑む。
その好意を素直に返報できない私は、やはり挙動不審の仏頂面で、蓮根を口に入れる。
彼女が愛おしそうに笑う。
爽やかで健康的につややかな梨のように。
私は、蓮根をかじる。
私も彼女のことをいつか見通せるほどになりたいと、願いながら。
そんなことすら知っているかのように、彼女が笑う。
秋の長夜は、ゆっくり更けていく。
込み上げる 切なさ呑み込む ための歌
鼻唄混じりに さよならと言い
君のため そんな誤魔化し 許さない
lalala Good 「bye」とは言わせない