静まり返った大通り。
崩れたコンクリートの壁。
剥き出し、錆び落ちた鉄骨。
ヒビ割れたアスファルト。
絡みついた蔦。落ちる影。
どの風景も、この地から人がいなくなったことを、物語っていた。
永遠などないことを物語っていた。
この幽霊都市の道を、僕は先を歩いていた。
ここを、旅の行き先の一つに選んだのは僕だったから、当たり前だ。
旅行先では行くと場所を決めた方が先導をする、というのが、僕たちの共通のルールだった。
この島は、かつて、永遠の繁栄を期待されて作られた、人工開発都市だった。
しかし、完璧に思われた都市計画と経済計画は、不安定で複雑怪奇な環境問題と情勢にあおられ、あっという間に破綻してしまった。
追い打ちをかけるように、その翌年、島内で、突然変異した奇形の野生種が大量発生する。
人や自然環境を破壊しはじめ、子孫を残せなかった奇形突然変異種たちが絶滅するころには、この島にはもう、誰も住んでいなかった。
そんな島に僕たちはふたり、来ていた。
僕とあなたは、三年間も付き合っていて、それはもうすぐ、ブリザーブドフラワーは枯れるくらいの長さだ。
それで、僕たちの関係は、変化を考える時期に差し掛かっていた。
僕はあなたを愛している。
口を開けば、いとも容易く永遠を誓ってしまいそうなほどに。
そんな不可能なことの重ささえ、あなたの笑顔のためになかったことにしてしまうほどに。
愛しているからこそ、僕はここに来た。
僕はあなたに対して、いつでも誠実でありたかった。
かつて、僕の一世一代の告白に誠実に向き合ってくれたあなただから。
僕の一生懸命さを受け止めようとしてくれたあなただから。
僕の告白に、誠実に正直すぎるほどに、気障に見えさえするほどに真っ直ぐ答えてくれたあなただから。
立派だったであろう家は崩れ落ち、その中身を日光に晒している。
屋根は崩れ、床は朽ち、ただ、太い大黒柱一本だけが、雨風に吹きさらされ、削り取られながらそこにある。
僕は振り返った。
あなたがいる。
膝をつき、ポケットを探る。
震える指に、箱の硬さが当たる。
唇が震える。
口を開く。
「この世には、この世界には、この島だって、永遠なんて、ないけれど…」
汗が滲む。
あなたの視線を感じた。
緊張しているのに、なぜだか温かさを感じた。
僕は唾を飲んで、次の一言を口の中でこね上げながら、顔を上げた。
「僕とッ!…」
あなたが、僕を見ていた。
愛おしそうな、泣き笑いのような、穏やかな微笑みで。
息を呑むような優しさで。
永遠なんて、ないけれど。
永遠なんて、なくとも。
彼女が深く微笑んだ。
あの日、僕がプリザーブドフラワーを受け取った、あの日のように。
永遠なんて、ないけれど、それでいい。
僕とあなたなら。永遠なんてないからこそ。
指輪を受け取ったあなたの一瞬は、何よりも強く、美しく見えた。
人を慰める時、拭う前に真っ先に涙の理由を聞くやつは、モテない。
モテないっていうか、分かってない。
目頭に溜まった涙の重たさもそのままに、外へ出た。
外はまだ、朝靄で煙っている。
走り出す。
何も分かっていない、何も分かっていないと唱えながら。
涙が目頭から離れて、少し後ろに落ちる。
顔がぐしゃぐしゃになってしまいそうだ。
涙が顔から流れていき、朝露が顔に張り付いていく。
耳で風を切れるくらい、スピードを上げる。
学生時代、現役で部活をしていた時は、いつもこんなスピードで走り込んでいたものだった。
涙の理由。それ自体は、どうだってよかった。
いや、どうでもよくはないけれど、説明するほどでもなかった。
ただ、嫌なことが何度か重なっただけなのだ。
嫌なことが毒のようにじわじわ効いていって、ふと、決壊しただけ。
別に理由があったとか、そんなことじゃないのだ。
鬱病の時、訳も分からず涙がこぼれるあの感じ。
あの状態なだけなのだ。
その状態の同居人にかける言葉が「なんで泣いてるの?」って!
分かってない。なーんも。
それが悔しいのだ。
同居人が期待外れだったことではなくて、そんなデリカシーのない、何にも分かってない奴に涙を見せてしまった私が。
こんなことなら、散歩しながらでも泣けばよかった!
悔し涙が溢れてきて、私は強く足を踏み込む。
スピードを上げる。
涙の理由を聞くなんて、分かっていない。
何にも分かってない。
「早く決めて。コーヒーが冷めないうちに。」
2人分のマグカップに、ブラックコーヒーを注ぎながら、
決断を迫る夜。
シュレディンガーの猫は死んでいた。
自分が分岐点だと感じていたところが、本当にパラレルワールドを作り出す決定的な分岐点だなんて、人間の思い上がりも甚だしい。
自分たちの決断で世界を左右できるなんて、ひどい思い上がりだったのだ。
パラレルワールド理論は真理だった。
選択の数だけ、世界は分岐し、並行して時間は過ぎ、パラレルワールドが形成される。
だからこそ、計算通りパラレルワールドに干渉すれば、私の計画もまた、完璧に遂行できるはずだったのだ。
しかし、私は思い違いをしていた。
パラレルワールドは、人の決定、人の決断だけが、形成するわけではないのだ。
パラレルワールドを別つ条件付けは、人の営みだけではない。
自然、環境、災害、運命、今までの生、他の動物の命…数多の条件が複雑に絡み合って、パラレルワールドは分たれる。
…つまり、人類だけが行動を改めたところで、パラレルワールドに行くことは叶わない。
シュレディンガーの猫は、確認せずとも死んでいたのだ。
だが、そうであっても私は諦めきれなかった。
なんたって懸かっているのは、私の推しの存亡だったから。
推しに出会った時は、一目惚れだった。
Vなる彼女が画面越しにとはいえ、こちらに微笑みかけてきた時、私の第二の人生が始まったのだ。
彼女がスクープと誹謗中傷に晒され、引退を表明したその時に私は死んだ。
私は私を生き返らせるために、灰色の人生を変えるために、パラレルワールドに辿り着きたかったのだ。
しかし、それももはや叶わない。
私の夢見たパラレルワールドは、存在しない。
存在したところで観測できない。
辿り着くこともできない。
なぜなら、私には推しと出会わない、という選択肢がないからだ。
私には、彼女に惚れないという選択は、とれないから。
私が観測できるすべてのパラレルワールドで、彼女は、引退を表明し、死に、私の前から去るだろう。
シュレディンガーの猫は死んでいた。
選択肢の数だけ、パラレルワールドがあったとしても。
とけいのはりがかさなって、とけいがぽーん、となる。
まだちいさいぼくでもわかる。
12じだ!
時計の針が重なって、ぐぅんと大きく伸びをする。
もうすぐ昼休憩の時間だ。
時計の針が重なって、鳴り出したアラームをとめる。
そろそろサークルに顔を出しにいく時間だ。
時計の針が重なって、目覚まし時計を叩いて起きる。
夜勤明けのブランチを作る時間だ。
時計の針が重なって、正午をラジオが告げる。
さあ、いよいよ、今日のピークがやってくる。
時計の針が重なって、白い湯気がふわふわとたつ。
もうすぐ饅頭が蒸しあがる。
時計の針が重なって、荷物を取りまとめて立ち上がる。
今から乗らなきゃならない列車が来る。
時計の針が重なって、慌てて組んでいた腕をほどく。
もう帰らなくてはいけない時間。
時計の針が重なって、からくり時計が動き出す。
もう待ち合わせの時間は過ぎているのだけど…。
時計のはりが重なって、日直さんが前に出る。
いただきますの、給食の時間。
時計の針が重なって、トンビたちが騒ぎ出す。
もうすぐ飯を持った人間が、公園にやってくる時間。
時計の針が重なって、チッチッ時を刻み出す。
ふぅ、どうやら上手く直った。
時計の針が重なって、私は装置をひっぱりだす。
元の時代に帰る時間だ。