「早く決めて。コーヒーが冷めないうちに。」
2人分のマグカップに、ブラックコーヒーを注ぎながら、
決断を迫る夜。
シュレディンガーの猫は死んでいた。
自分が分岐点だと感じていたところが、本当にパラレルワールドを作り出す決定的な分岐点だなんて、人間の思い上がりも甚だしい。
自分たちの決断で世界を左右できるなんて、ひどい思い上がりだったのだ。
パラレルワールド理論は真理だった。
選択の数だけ、世界は分岐し、並行して時間は過ぎ、パラレルワールドが形成される。
だからこそ、計算通りパラレルワールドに干渉すれば、私の計画もまた、完璧に遂行できるはずだったのだ。
しかし、私は思い違いをしていた。
パラレルワールドは、人の決定、人の決断だけが、形成するわけではないのだ。
パラレルワールドを別つ条件付けは、人の営みだけではない。
自然、環境、災害、運命、今までの生、他の動物の命…数多の条件が複雑に絡み合って、パラレルワールドは分たれる。
…つまり、人類だけが行動を改めたところで、パラレルワールドに行くことは叶わない。
シュレディンガーの猫は、確認せずとも死んでいたのだ。
だが、そうであっても私は諦めきれなかった。
なんたって懸かっているのは、私の推しの存亡だったから。
推しに出会った時は、一目惚れだった。
Vなる彼女が画面越しにとはいえ、こちらに微笑みかけてきた時、私の第二の人生が始まったのだ。
彼女がスクープと誹謗中傷に晒され、引退を表明したその時に私は死んだ。
私は私を生き返らせるために、灰色の人生を変えるために、パラレルワールドに辿り着きたかったのだ。
しかし、それももはや叶わない。
私の夢見たパラレルワールドは、存在しない。
存在したところで観測できない。
辿り着くこともできない。
なぜなら、私には推しと出会わない、という選択肢がないからだ。
私には、彼女に惚れないという選択は、とれないから。
私が観測できるすべてのパラレルワールドで、彼女は、引退を表明し、死に、私の前から去るだろう。
シュレディンガーの猫は死んでいた。
選択肢の数だけ、パラレルワールドがあったとしても。
とけいのはりがかさなって、とけいがぽーん、となる。
まだちいさいぼくでもわかる。
12じだ!
時計の針が重なって、ぐぅんと大きく伸びをする。
もうすぐ昼休憩の時間だ。
時計の針が重なって、鳴り出したアラームをとめる。
そろそろサークルに顔を出しにいく時間だ。
時計の針が重なって、目覚まし時計を叩いて起きる。
夜勤明けのブランチを作る時間だ。
時計の針が重なって、正午をラジオが告げる。
さあ、いよいよ、今日のピークがやってくる。
時計の針が重なって、白い湯気がふわふわとたつ。
もうすぐ饅頭が蒸しあがる。
時計の針が重なって、荷物を取りまとめて立ち上がる。
今から乗らなきゃならない列車が来る。
時計の針が重なって、慌てて組んでいた腕をほどく。
もう帰らなくてはいけない時間。
時計の針が重なって、からくり時計が動き出す。
もう待ち合わせの時間は過ぎているのだけど…。
時計のはりが重なって、日直さんが前に出る。
いただきますの、給食の時間。
時計の針が重なって、トンビたちが騒ぎ出す。
もうすぐ飯を持った人間が、公園にやってくる時間。
時計の針が重なって、チッチッ時を刻み出す。
ふぅ、どうやら上手く直った。
時計の針が重なって、私は装置をひっぱりだす。
元の時代に帰る時間だ。
私が描かれたのは、ずっと昔のこと。
まだ、スマホどころか、カメラなんてハイテクなものすらなくて、一瞬を保存するなんて大それたことは、それこそ魔法でもなくてはできなかった、ずっと昔のこと。
宮廷付きの画家が精密描法なんかを使って、宮廷行事や宴会の様子を記録していた、そんな時代のことよ。
私が描かれたのは。
私の親愛なる父_あの王様の城の宮廷画家だった彼が、その日呼ばれたのは、舞踏会だったの。
その舞踏会は、近隣の国の貴族同士の交流会、という名目だったけれど、それの他にも目的はあった。
その当時、舞踏会が開かれた3日前に、その城の主人である、若き王は結婚適齢期を迎えていたのよ。
若き王は、変わったお方だった。
私の父_つまり私を描いた画家のことだけれど、彼だって、その当時は貴族にウケない、街角の一介の、平民の記念日に記念画を描きに行くような、そんな一般画家の1人だったの。
それを見出したのが若き王。
それだけでも当時は不思議なことだったけれど、もっと不思議だったのは王が、父を取り立てたその理由。
若き王は、理由を尋ねた父に言ったらしいの。
「貴殿の絵には、国の声が籠っている。聴こえるのだ」
…こんな風に、父が仕えた王は、変わっているけれど、治世は安定した、とても不思議な王だったというわ。
私に描かれたこの舞踏会は、そんな王の婚約者探しも行われていた、そんな会を記録したものなの。
私の真ん中、右側に大きく描かれている、左側の、グラスを傾けている女性に、手を差し伸ばして、声をかけている紳士がいらっしゃるでしょう?
彼が、ウワサの王なの。
この王、なんとおっしゃっていると思う?
「僕と一緒に踊ってください」?
「僕と一緒に飲みませんか」?
…いいえ、実際は、かの王はこうおっしゃったのだって。
「僕と一緒に、この国の決断をしてくださいませんか」
…あなたたちにはわかるかしら?
変わった王の変わった口説き文句でしょう?
つまり、王が生涯の妻を見そめた瞬間を描いたのが、この私というわけなの。
後に私の父が、王になぜこの貴族の娘を見そめたのか、と聞いた時、かの王はこうお答えしたらしいわ。
「あの娘は私と同じ。国の声を聞いていたからだ。」
「僕は、生涯の伴侶には、僕と一緒に、国を愛して欲しかったのだよ」
…変わった王でしょ?
実際、王様の妻は、王様に引けを取らないくらいの名君であられたそうよ。
理知的で、変わり者の彼らに統治されたかの国のその一代は、たいそう繁栄したのよ。
私はその時を、父が閉じ込めた時の記録画なの。
名君が名妃を見そめ、声をかけたあの瞬間。
名君の「僕と一緒に」を閉じ込めた、繁栄の始まる瞬間を。
私は父に、たいそう愛されたの。
父は、あの王様に忠誠を抱いていて、かの王の一生を描いたけれど、私はその中でも、父の一番のお気に入りだったのよ。
父は私をこう呼んだわ。『運命の時』と。
かつて、ここに描かれたお妃その人は、王の前で冗談混じりに私をこう呼んだ。『僕と一緒に』
私は、その愛をずっと抱いて存在してきたの。
もう今からずっとずっと昔のことよ。
まだ、写真もスマホも動画さえもなかった時代のこと。
あなたたちにも伝われば、嬉しいわ。
曇りの日、肌の黒いあの子と一緒に拾った猫だから、cloudy。
灰色で、小さくて、気まぐれな僕の飼い猫。
今は棺の中で、静かに眠っている。
cloudyは、曇り空というより、埃の塊みたいだった。
部屋の隅でころころ走り回る様子は、箒に転がされ、風に吹かれて転がる、埃の塊そのものだった。
…拾ったときも、箒で転がされていたし。
だから、僕はあの時、一緒に助け出した子猫にdustとつけよう、だなんて、無邪気にもひどい提案をした。
今思うと、本当にひどい案だった。
あの子は目を見開いて、ひどく傷ついたような顔をして、それから、勢いよく首を振ったのだ。
僕はあの頃、何も知らない無邪気な少年だった。
動物虐待という言葉も、人種差別という言葉も、排他主義というイデオロギーも、いじめという言葉の実感さえ持たない、未熟で無知で幸せな子どもだった。
あの日、泣きそうな顔で子猫を助けに行った友人の、あの切羽詰まった悲しそうな形相の理由も、助け出したcloudyの病的なほどの怯えも、当時の僕には、全く訳の分からないものだったのだ。
あれから、cloudyは僕と一緒に大きくなった。
cloudyを共に助け出した友人のあの子は、僕らが成人する間に、政策やら世間体やらに追い詰められて、とおに、遠くへ行ってしまった。
僕の少年時代、無邪気で穏やかで何もかもが新鮮で楽しかった思い出は、みんなあの子とのもので、人間に失望した哀しく辛い思い出も、大抵あの子とのもので、
それを時折、忘れないように抱かせてくれるのが、いつまでも、ふわふわと綿埃のような毛並みをしたcloudyだった。
cloudyは今、棺の中にいる。
僕の少年時代と一緒に。
cloudyはきっと、本物の雲になるのだ。
火に焼かれて、煙になって。
そして、僕とあの子の頭の上に、あの日のように、優しく、どんよりと立ち込めるのだ。
僕はcloudyに別れの挨拶をする。
僕の愛猫と、僕の思い出と、あの子に、別れの挨拶をする。