薄墨

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9/11/2025, 2:59:20 PM

この辺りには、「ひとりきり」という言葉がある。
濃厚で重たい霧が壁のように立ち込めて、船が一艘一艘孤立してしまい、最後には行方不明になってしまうことを言う。

この海には、ひとりきり_壁のような閉塞感のある、濃厚な霧_がよく出る。
それが祟りなのか、加護なのか、ただの自然現象なのかは定かでないけれども。
この辺りには、確かにひとりきりが出る。

風にすら揺らがないこの霧のために、この辺りの沈没船の数は、他の海と比べ物にならない。
ここは船の墓場で、この酷い霧は、沈んだ船たちを弔う線香だかなんだかの煙なのではないか。
それほどまでに濃い霧が出る。

ひとりきりは、船を連れ去っていく。
漁師を、船員を、整備士を、鼠取りの猫を、積荷を、マストを、全てを霧の中に引き摺り込んで、閉じ込める。

深い霧の中で、船の汽笛が聞こえたのに、船の姿が見当たらないなら、それはきっと、今、ひとりきりに紛れ込んでいる哀れな船の断末魔なのだ。そんな話がまことしやかに囁かれている。

不本意である。
確かに、ここは船の墓場だが、恐れるような場所では、ないからだ。

ひとりきりは、船の弔いと迎え火の煙だ。
寿命を迎えたり、もう死にたいと思ったりした船は、この霧に誘われ、集う。

そうして、船は最期のひとときを、人間や、動物や、荷物や、自分に近しい、自分を愛してくれたモノたちと、ゆっくりひとりきりで向き合い、過ごすのだ。

ここはそういうところだ。
決して、人間の言うような、魔境ではない。

私は今日も、迎え火を焚いて船を待つ。
ひとりきりを海面に漂わせる。

船の、悔いのない最期を、作るために。

9/10/2025, 10:33:06 PM

今年のクリスマスプレゼントは、筆記用具とノートだった。
最悪だ。
サンタへの手紙には、「新しいスパイクが欲しい。」って書いたのに。

真っ白なベッドの枕元に置かれた、小洒落た包みを開くと、中に入っていたのは、真っ新なノートと、4色ボールペンだった。

確かに僕は、初めて知ったことをノートにまとめて、自分だけの図鑑や辞書を作るのは好きだったけど。
今日だけは、別のプレゼントが欲しかったのに。

新しい足に合うスパイクが欲しかったのに。

いつもの看護師さんが笑顔をたたえてやってくる。
動画を回している。
手のひらほどの大きさのビデオを手に、「みんな、サンタさんにお礼で送りたいから、プレゼントを使ってるところを見せてね」
そう言っている。
お目当てのプレゼントをもらえた子達が大はしゃぎで、看護師さんにプレゼントを見せにいく。

使いたくなくてプレゼントをしまいこんだ時、看護師さんと目が合った。
看護師さんは、申し訳なさそうな、悲しそうな、心配そうな、いろんな複雑なものが混じった温かい目で、僕を見ている。

仕方なくノートを引っ張り出して、ボールペンを持つ。
4色のボールペンには、黒、赤、緑、青の芯があるようだ。
僕はボールペンを握って、それぞれの色で覚えたばかりの英語の綴りを書いてみた。

Red,Green,Blue

書きながら、悲しくなった。
本当は僕にだって分かっていた。
サンタさんが新しいスパイクをくれなかった理由も。
看護師さんがあんな顔をする理由も。

僕は、掛け布団をこっそりめくって、足を見た。
僕の足だったところを見た。

足は膝のところで丸まって、それ以上は伸びていない。
僕は僕の足と引き換えに生きている。

涙が出そうで、あわてて、足を隠した。
ノートを見る。

Red,Green,Blue

鮮やかな僕の字が、ぼんやりと潤んできた。

9/9/2025, 10:19:37 PM

安心フィルターがなんだっていうんだ。
そう思いながら、依然、燃え盛るSNS投稿を報じる携帯端末の電源を切る。
この数十年で、安心フィルターが名ばかりになるほど、人の悪意はムクムクと育ち切ってしまった。

ため息を一つ吐く。
肺の中に取り付けたフィルターが、ため息と一緒に埃を吐き出す。
外には澱んだ空気が渦巻いている。

数年前、空気中に突如発生した有害物質のせいで、外へ出るためには、肺フィルターが欠かせなくなった。

携帯端末の中の名誉毀損をたっぷりかぶったネット安心フィルターと対照的に、人工体内用のフィルターは有能だ。
肺フィルターは、空気中の有害物質を確実にガードしてくれるし、喉に取り付けられた喉フィルターは、私たちの体内から出る、醜いしゃがれた声を濾して、美しく純粋な声を届けてくれる。
鼓膜のフィルターは、雑音や不都合な音から聴覚を守ってくれるし、網膜の加工フィルターは、砂塵等のノイズを取り払った綺麗な景色を、見たいと望む世界の姿だけを、見せてくれる。

人類は、倫理や道徳と引き換えに、万能なフィルターを手に入れた。
臭いものに蓋をし、聞きたくない現実だけをシャットアウトする万能瞼を手に入れたのだった。

だから、こうして外の探索や清掃を生業としている、私のような清掃員でなければ、現実を見なくてもよく、また、汚れ切った現状を見る必要もなかったのだった。

いや、私でも、現実を見る必要はなかった。
現に、さっき覗いた端末の罵詈雑言の中に、独身で清掃員をしている、私みたいな男への誹謗中傷は一つも見えなかったのだから。

始業のベルが鳴る。
始業のベルの澄んだ音色は、鼓膜フィルターをすり抜けて、鮮明に脳内に響き渡る。

私は立ち上がる。
自分にとって都合の良い世界で、これからも生きていくために。

9/8/2025, 2:38:27 PM

「仲間になれなくてごめんね」
今際の際の、
哀れみを孕んだそんな声と、慈悲すら感じさせるあの寂しそうな微笑が

今も悪霊となった私の脳を焼き焦がしている。

9/7/2025, 10:04:20 PM

その怪異は、噂によれば、透き通るように細いあの朝日の中にあるはずだった。

ところが、その日は雨が降っていた。
厚く曇る灰色の空から、銀に光る縫針のような細い雨が、ひっきりなしに降り続いていた。

私が君を見たのは、そんな雨の日だった。

「雨は嫌いなのに」
私と目が合うと、君は少々驚いて、釈然としないようすでそう言った。
その頃の私は、とんと噂話に鈍感であったから、君のそれが何を表すかは理解していなかったのだが。

それから私は、雨の日の視界の先に、君をとらえるようになった。
細いにわか雨の中に、君はいつもいた。
雨と君。
私の中では、その2つはセットで、揺るぎないものだった。

あの日も、雨が降っていた。
君を初めて見つけた日のような、縫針みたいな細い銀の雨が降っていた。

その日も私は、雨と君を見ていた。
雨が降り頻る窓に、頬杖をついて。

その時、にわかに日がさした。
君の立っているところに、一筋の、眩しすぎるくらい金色の、日がさした。

見上げてみると、厚い雲がそこだけ、僅か3センチほど、切れ込まれて、そこから黄金の光が斜めにさしこまれていた。

ふと目線を戻すと、もう君はいなかった。

その時、私は悟った。
もう私には、雨と君を見ることは叶わないのだと。

その怪異は、晴れた早朝に出遭うもののはずだった。
透き通るように細い朝日の中にあるはずだった。

その怪異は、細い銀の雨の中の、鮮やかな黄金の光に、とても似合っていた。

雨と君は、斜めに差し込まれた、あの光の中に消えた。
雨だけが、まだ降り続いている。

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