頭に器具をセットして、目を瞑る。
手に持ったリモコンのスイッチを入れる。
固定ベルトが自動で手首に巻き付いて、体を固定する。
今日も嫌なことがあった。
昨日もきっと明日も。
そんな時、私はこの椅子に座って、この機械に自分をセットして、スイッチを入れる。
心だけ、逃避行。
心だけ、現実逃避するために。
この機械は「仮想精神世界体験機」。
この機械の椅子に体を預け、脳をセットし、スイッチを入れれば、体を現実に残したまま、心だけ、逃避行することができるのだ。
ストレス社会を極め、出生率は下がり、外的ストレスや精神病により自殺率ばかり上がるこの現代社会の、国民の精神に悪影響なストレスを軽減するため、開発されたこの機械は、心だけなら、いつでもどこへでも、連れて行ってくれる優れものだ。
今では、今を生きる人間の大半が、これに頼りながら生きている。
現実で休日にスポーツやら趣味やらをして気分転換…なんて前時代的なストレス発散をする人間などもういない。
今では、仕事や食事、睡眠をしていない人間たちは、みんなこの機械に繋がれて、心だけ、逃避行をしている。
もはや、現実には私たちの希望や幸せはなく、無機質なシステムだけが粗々と広がっている。
私たちはもう現実を生きていない。
体を置き去り、心だけ、心だけ、逃避行しながら、もう誰も相手にしないようなクソな現実を動かして、生きている。
私たちは、私たちの仮想精神世界で生きている。
これが、心だけ逃避行をしてきた私たちの末路だった。
心が体から離れ、逃避行へ向かう感覚がする。
瞼の裏に、私たちの望んだ、お馴染みの、仮想精神世界の景色が写り出す。
私は心だけ、逃避行する。
心だけ、現実から。
現実から、逃げ続ける。
現実からも、自分の肉体からも、世代的な責任からも、人類という種族からも。
逃避行する。心だけ。
唾を飲む。
胃が丸ごとひっくり返りそうなほど、私は今、緊張している。
兎にも角にも、まずは来店からだ。
看板を見上げる。
私はずっとここに冒険しに来たかったのだ。
怯む足を動かして一歩を踏み出す。
あとは扉を開けるだけだ。
大丈夫、私なら食べられる。まずは来店、来店だ。
繰り返し自分に言い聞かせながら、扉に手をかける。
扉を開けると、冷房の、清潔で涼しい風が流れ出てくる。
それから料理の美味しそうな香り。
それで私は、ちょっとホッとする。
なんだ、清潔だし、普通の匂いだ。大丈夫。
出てきた店員さんに一人であることを告げ、案内に従う。
その間も落ち着かなかった。
他のお客の席に置かれた料理は、どれもこれも食べ物とは思えない見た目をしていて、思わずギョッとする。
お客たちは当たり前のように、楽しそうに会話をしながら、美味しそうに、作り物のような料理を口に運んでいる。
席に着くと、メニューが運ばれてくる。
私はメニューをじっくり眺める。
臆病な私の思考が、ついつい、見た目が食べ物に似ている料理を選びそうになる。
しかし、これは冒険、冒険なのだ。
思いっきり冒険しないと意味がない。
私は自分に言い聞かせて、一番得体の知れない料理を頼んだ。
それは真っ黄色だった。
真っ黄色の楕円型で、その上にはビビットな目が覚めるほど赤い何かで、真っ黄色の楕円を横切るように、赤い楕円が描かれている。
とても食べ物とは思えない。
だから、私は、あえて冒険をし、これを食べてみることにした。
私の暮らす地区は、今私のいるここ、ニホンからは、時間的にも空間的にも遥かに遠いところにある。
食文化も、こことはだいぶ違う。
私の地区の主食はマゲルノだし、私の好物はグリフォリーノだ。
私はかなり慎重で真面目で臆病な性格らしい。
自分ではそうは思わないのだが、私をよく知っている友達は、私のそんな性格をよくイジる。
口を揃えて曰く、「お前さ、もっと冒険しろよ。せっかく、俺たちは時空間を超えて旅行できるのに。」
そう言われるのに嫌気が刺してきた頃、私は美食家でゲテモノ食い友人から、ここを勧められた。
だから、冒険の実績を作りに、遠路遥々冒険にやってきたのだった。
ぼうっと今までの経緯を思い出しているうちに、店員がやってきた。
“オムライス”なる珍妙な料理を持って。
画像とそっくりだ。
真っ黄色な楕円型に、赤い楕円の印。
“オムライス”が、運ばれてくる。
私の冒険が、今、始まる。
記憶の中では、私はあなたをいつも見上げていた。
あなたと話す時、私はいつもあなたと、あなたを取り巻く空を見上げていた。
あなたの背が、高かったから。
何度目かもうわからない「おはよう」を、今日もいつものように言って、空を見上げる。
あなたとの会話を重ねたあの日が、いつも私の目線を押し上げる。
結局、背は伸びなかった。
あなたと出会ってから、習慣になった朝の一杯の牛乳は私の骨を強くしたばかりで、背を伸ばしてはくれなかった。
眩しい朝日に目を細めて、空を眺める。
あなたはいつだって早起きだった。
いつも私より早く起きていた。
牛乳を飲み干したコップを、テーブルの上に置いて、しばらくあなたのことを考える。
それから、歯を磨いて、引き出しから便箋を取り出す。
あなたへ向けて手紙を書く。
今、思い出したこと、今日、あなたに伝えたいことを忘れないうちに。
ペンを走らせているうちに、アラームが鳴る。
起きれなかった時のために、かけていたアラームだ。
朝、私を起こしてくれていたあなたがいなくなってから、私はすっかり早起きになった。
手紙を書き終えて、便箋を丁寧に折りたたむ。
封筒に入れて、封をする。
宛先を書き入れて、切手を貼る。
そうしてできたあなた宛手紙を、二段目の引き出しに入れる。
あなたに届け。
届いて……。
念を押すように、そう願いながら。
今はもういない、あなたと私に届きますように。
届いて…届いてほしい、と到底現実的じゃない願いを込めて。
引き出しをしめる。
癖で空を見上げる。
窓から見える空は、今日も青い。
無数のアニサキスを腹に宿した鯨が、今日も、どこかの大洋を漂っている。
本来の終宿主の胃の中なら、人の噂の中で悪名高いあのアニサキスも、腹痛を起こさないらしい。
だから、野生の鯨や海豚の腹の中には、たくさんのアニサキスが生きている、らしい。
そんなどうでもよい雑学を知ったのは、太陽がギラギラと重苦しい、あの砂浜だった。
その日は、恐ろしく暑かった。
にも関わらず、私は浜辺に立っていた。
頬を、首筋を、汗の露がたらたらと滑り落ちた。
顎をつたった雫は、ぽたぽた、ひっきりなしに襟元へと落ちてきた。
そして、横には、静かな顔であなたが座っていた。
あなたの横顔は、いつも、汗粒一つかいていない爽やかな、なめらかな白い肌で、その美しい頬を、涼しげな、すべらかな細い首が支えていた。
しかし、あの日の、あの暑さには耐えかねたらしく、
その日は珍しく、あなたの頬は、わずかに上気したように薄赤く色づいていて、つん、と形よくついた白い鼻の頭にだけ、小さな汗粒がぽつぽつと乗っかっていた。
私たちは見学組だった。
海水浴を楽しむ他の同級生たちの喧騒は、私たちには浜辺の陽炎の向こうに遠く聞こえていた。
私はその日、健康体にも関わらず、海に入らなかった。
私はその日の前日、親しい友達とちょっとした(といっても、当時の学校が全てだった幼き思春期の日の私には大問題であったが)揉め事を起こし、それに起因する嫌がらせや自分自身の引け目のために、同級生とお互いに命を預けてて目一杯はしゃぐ、海水浴という行事に参加する気が起きなかったのだ。
そこで私は、万年見学組で、水に入るところを見せたことがなければ、私自身も話した記憶のない、“つまらない”同級生であるあなたの隣に突っ立って、ひとりぼっちで、同級生の海水浴をじっ、と眺めていたのだった。
そうしていると、自分たちのいるギラギラと暑い浜辺と同級生たちのいるきらめく波間の距離は、いつかテレビで見たアメリカの道路よりもずっと、遠いように感じられた。
私たちはしばらく沈黙を守ったまま、遠い同級生の喧騒を眺めていた。
不意に、遠い海原に目を凝らしていたあなたは、同級生が泳いでいるよりずっと沖の、地平線付近の波間を指差した。
「鯨だ」と、あなたはぽつりと言った。
それから、あなたは、着ていた服の長い袖で、鼻の頭の汗を拭いながら、ぽつりぽつりと、あのアニサキスの話をした。
地平線付近をゆったりと流れる鯨をじっ、と見つめながら。
私は、なぜだかまだ発汗したばかりの、額の無数の汗の粒を、腕で拭った。
なぜだか、そのアニサキス云々の話は、あなたが私に向かって話しているのだという確信があった。
汗を拭った反動で、頭が揺れ、滝のように頬を流れていた汗が、ぼどぼどと砂浜を濡らした。
なぜだか、私はあの日の景色を、少年時代のどんな思い出の景色よりもずっと、鮮明に、まざまざと覚えている。
あの日の白い雲の具合。
陽炎の揺らめきを通してみた同級生の滲んだ輪郭。
ぼかっ、と、くっきり黒く浮かんだ鯨の影。
ギラギラと重くのしかかる日光。
そして、ぽつり、ぽつり、と、淡々と言葉を紡ぐあなたの、涼しげな白い横顔。
今日も、無数のアニサキスを腹に宿した鯨が、どこかの大洋を漂っている。
あの日の景色と変わらぬように。
けれど、もはや、あの日の景色は、私の想い出の中にしか存在しないのだろう。
夏の暑さが盛りに近づくと、私はあの日の景色を思い出さずにはいられない。
絶えず汗の滴る不快感と、真夏の海の灼けるような輝かしさと、あなたの涼しげな白い肌と。
瞼の裏には、今日もあの日の景色がある。
あなたが海で死んだ、という知らせを受けてから七年も経つ、今日という日にも。
今日も暑い。
陽炎が、遠い景色をわずかに揺らめかせている。
さやえんどうを剥く。
緑の筋が、すうっとさやから離れる。
青い、さやえんどうの青臭い匂いが、筋がさやから離れる瞬間だけ、ぷんと立つ。
旬を過ぎて、少し固くなったさやえんどうたち。
私はいつもそうだ。
いつも、植物を食べたくなるのは、旬を少し逃したあたりなのだ。
旬が一通り終わって、残り物になって、売り場の端に追いやられた野菜や果物やらを見て、いつだって私は無性にそれが食べたくなる。
そしてたくさん買ってくる。
そして、旬に食べてもらえなかった植物の皮を剥き、下処理をし、ひとりぼっちで料理する。
私はいつもそうなのだ。
一時が万事、そうなのだ。
たいてい、何か、周りからワンテンポ遅くにハマったり、気になったり、好きになったりする。
マイブームを共有したって、それは私以外の他の人の中では、もう時代遅れになっていて、それで私は、自分のことを話そうとした言葉をみんな、胃の中まで呑み込む。
そんなノロマで皆の一歩後をいく私にも、ただ一つだけの例外がある。
それが願い事だ。
興味や関心は、いちいち幼く遅いのに、私が胸の内に抱く願い事だけは、どうしてか、いつも年相応だった。
今だって、出会いや恋人や婚活には興味が持てない癖に、どうしてか私は恋人というものが欲しかった。
行動は伴わない、熱意も伴わない、そんな願い事だけはいつも、自分の刻んできた時を裏切らず、そして私すら裏切らないのだった。
私の願い事は、ある日、つるんと、何かのはずみで、拍子抜けするほど簡単に、叶ってしまうのだった。
だから私は、幼い頃から願い事が得意だった。
願い事は私にとって、得意なことで、自然なもので、Todoリストの箇条書きの一文くらいの軽さで、いつもそこにあった。
熱意や執着など、願い事とは遥かにかけ離れた言葉に思えた。
御百度参りなど、よくわからなかった。
私にとって、願い事とは、無気力に、無邪気に、それでいて胸の奥で確かに切望するものだった。
そうやって、がっつかずに思うものだった。
そしたら、いつか、つるっと、まるで喉を滑り降りるところてんのようなつるやかさで叶うものなのだった。
風鈴が思い出したように、ちりんと鳴いた。
私は、次のさやえんどうをつかみ、ヘタをひっぱって、筋をずるずると引いた。
固くなったさやえんどうのさやから、やや控えめに、冗長に、するすると筋が離れた。
風鈴が思い出したようにまた、ちりん、と鳴った。
蝉がわしわしと鳴いていた。