薄墨

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さやえんどうを剥く。
緑の筋が、すうっとさやから離れる。
青い、さやえんどうの青臭い匂いが、筋がさやから離れる瞬間だけ、ぷんと立つ。

旬を過ぎて、少し固くなったさやえんどうたち。
私はいつもそうだ。
いつも、植物を食べたくなるのは、旬を少し逃したあたりなのだ。
旬が一通り終わって、残り物になって、売り場の端に追いやられた野菜や果物やらを見て、いつだって私は無性にそれが食べたくなる。
そしてたくさん買ってくる。
そして、旬に食べてもらえなかった植物の皮を剥き、下処理をし、ひとりぼっちで料理する。

私はいつもそうなのだ。

一時が万事、そうなのだ。
たいてい、何か、周りからワンテンポ遅くにハマったり、気になったり、好きになったりする。
マイブームを共有したって、それは私以外の他の人の中では、もう時代遅れになっていて、それで私は、自分のことを話そうとした言葉をみんな、胃の中まで呑み込む。

そんなノロマで皆の一歩後をいく私にも、ただ一つだけの例外がある。
それが願い事だ。

興味や関心は、いちいち幼く遅いのに、私が胸の内に抱く願い事だけは、どうしてか、いつも年相応だった。
今だって、出会いや恋人や婚活には興味が持てない癖に、どうしてか私は恋人というものが欲しかった。

行動は伴わない、熱意も伴わない、そんな願い事だけはいつも、自分の刻んできた時を裏切らず、そして私すら裏切らないのだった。
私の願い事は、ある日、つるんと、何かのはずみで、拍子抜けするほど簡単に、叶ってしまうのだった。

だから私は、幼い頃から願い事が得意だった。
願い事は私にとって、得意なことで、自然なもので、Todoリストの箇条書きの一文くらいの軽さで、いつもそこにあった。

熱意や執着など、願い事とは遥かにかけ離れた言葉に思えた。
御百度参りなど、よくわからなかった。

私にとって、願い事とは、無気力に、無邪気に、それでいて胸の奥で確かに切望するものだった。
そうやって、がっつかずに思うものだった。
そしたら、いつか、つるっと、まるで喉を滑り降りるところてんのようなつるやかさで叶うものなのだった。

風鈴が思い出したように、ちりんと鳴いた。
私は、次のさやえんどうをつかみ、ヘタをひっぱって、筋をずるずると引いた。

固くなったさやえんどうのさやから、やや控えめに、冗長に、するすると筋が離れた。
風鈴が思い出したようにまた、ちりん、と鳴った。

蝉がわしわしと鳴いていた。

7/7/2025, 2:16:15 PM