薄墨

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無数のアニサキスを腹に宿した鯨が、今日も、どこかの大洋を漂っている。

本来の終宿主の胃の中なら、人の噂の中で悪名高いあのアニサキスも、腹痛を起こさないらしい。
だから、野生の鯨や海豚の腹の中には、たくさんのアニサキスが生きている、らしい。
そんなどうでもよい雑学を知ったのは、太陽がギラギラと重苦しい、あの砂浜だった。

その日は、恐ろしく暑かった。
にも関わらず、私は浜辺に立っていた。
頬を、首筋を、汗の露がたらたらと滑り落ちた。
顎をつたった雫は、ぽたぽた、ひっきりなしに襟元へと落ちてきた。

そして、横には、静かな顔であなたが座っていた。
あなたの横顔は、いつも、汗粒一つかいていない爽やかな、なめらかな白い肌で、その美しい頬を、涼しげな、すべらかな細い首が支えていた。

しかし、あの日の、あの暑さには耐えかねたらしく、
その日は珍しく、あなたの頬は、わずかに上気したように薄赤く色づいていて、つん、と形よくついた白い鼻の頭にだけ、小さな汗粒がぽつぽつと乗っかっていた。

私たちは見学組だった。
海水浴を楽しむ他の同級生たちの喧騒は、私たちには浜辺の陽炎の向こうに遠く聞こえていた。

私はその日、健康体にも関わらず、海に入らなかった。
私はその日の前日、親しい友達とちょっとした(といっても、当時の学校が全てだった幼き思春期の日の私には大問題であったが)揉め事を起こし、それに起因する嫌がらせや自分自身の引け目のために、同級生とお互いに命を預けてて目一杯はしゃぐ、海水浴という行事に参加する気が起きなかったのだ。

そこで私は、万年見学組で、水に入るところを見せたことがなければ、私自身も話した記憶のない、“つまらない”同級生であるあなたの隣に突っ立って、ひとりぼっちで、同級生の海水浴をじっ、と眺めていたのだった。
そうしていると、自分たちのいるギラギラと暑い浜辺と同級生たちのいるきらめく波間の距離は、いつかテレビで見たアメリカの道路よりもずっと、遠いように感じられた。

私たちはしばらく沈黙を守ったまま、遠い同級生の喧騒を眺めていた。

不意に、遠い海原に目を凝らしていたあなたは、同級生が泳いでいるよりずっと沖の、地平線付近の波間を指差した。
「鯨だ」と、あなたはぽつりと言った。

それから、あなたは、着ていた服の長い袖で、鼻の頭の汗を拭いながら、ぽつりぽつりと、あのアニサキスの話をした。
地平線付近をゆったりと流れる鯨をじっ、と見つめながら。

私は、なぜだかまだ発汗したばかりの、額の無数の汗の粒を、腕で拭った。
なぜだか、そのアニサキス云々の話は、あなたが私に向かって話しているのだという確信があった。
汗を拭った反動で、頭が揺れ、滝のように頬を流れていた汗が、ぼどぼどと砂浜を濡らした。

なぜだか、私はあの日の景色を、少年時代のどんな思い出の景色よりもずっと、鮮明に、まざまざと覚えている。

あの日の白い雲の具合。
陽炎の揺らめきを通してみた同級生の滲んだ輪郭。
ぼかっ、と、くっきり黒く浮かんだ鯨の影。
ギラギラと重くのしかかる日光。
そして、ぽつり、ぽつり、と、淡々と言葉を紡ぐあなたの、涼しげな白い横顔。

今日も、無数のアニサキスを腹に宿した鯨が、どこかの大洋を漂っている。
あの日の景色と変わらぬように。

けれど、もはや、あの日の景色は、私の想い出の中にしか存在しないのだろう。

夏の暑さが盛りに近づくと、私はあの日の景色を思い出さずにはいられない。
絶えず汗の滴る不快感と、真夏の海の灼けるような輝かしさと、あなたの涼しげな白い肌と。

瞼の裏には、今日もあの日の景色がある。
あなたが海で死んだ、という知らせを受けてから七年も経つ、今日という日にも。

今日も暑い。
陽炎が、遠い景色をわずかに揺らめかせている。

7/8/2025, 2:02:10 PM