あの虹の向こうに、何があるのか知りたかった。
あの山の向こう、あの空が続く先に、何があって、どんな景色が広がっているのか。
気になって気になって仕方ない。
遠くへ行きたい。
まだ見ぬ世界を見たい。
人の愚かさを伝える景色を、人の優しさを感じられる姿を、人のありのままを考えられる史跡を。
見たい。たくさん見たい。遠くへ行きたい。
そう。私は遠くへ行きたかったのだ。
人が好きで、この世界が好きで、何もかもが愛おしいから、いくら遠くにあっても愛おしいそれを感じていたいのだ。
遠くへ、遠くへ行きたい。
その一心で、私は冒険家になった。
テントを担いで山を登る。
ヨットの帆を操り海を渡る。
縄を投げて岩山を登る。
ハングライダーを背負って空を滑空する。
山頂には純白の雪がふわふわと積もっている。
海の小波は太陽に照らされて細かく煌びやかに輝いている。
険しい岩山の切り立った角度は独特の印影を地面や岩に投げかける。
空はくるくると表情を変える。
植物は絡み合い、日光や養分を醜く奪い合いながら美しく多様に茂る。
動物は怯え合い、利己的な欲望を晒しながら醜く食い喰われ、美しく多様な生態を飾る。
人間は憎み合い、愚かにも殺し合いながら醜く生き延びて、美しく多様な生き様を残す。
私はその全てが好きだった。
だから、私は遠くへ行きたい。
遠くへ行って、醜く利己的で美しく多様な生き物を、自然の営みを、地球を、何もかも網膜に焼き付けたい。
私は今日も冒険へ出る。
靴紐を結び、荷物を背負い、朝日に挨拶をして。
私は遠くへ行きたい。
遠くへ行って、全てを網膜に焼き付けるまで。
遠くへ、遠くへ行きたい。
透明な氷 小刀でそっと 削ぎ削り
残った芯こそ 天然クリスタル
クリスタル 氷の中から 掘るように
かき氷削る おやじの親指
玻璃水晶 クウォーツシリトン アメジスト
やっぱりクリスタルが 一番魔惑
集団の 狂気は人を 氷漬け
自由砕ける クリスタル・ナハト
とうもろこしを食べるのには、元気がいる。
あの、隙間なくびっしりと並んだつやつやの、ニスでも塗ったみたいなピカピカの黄色い実が密集した塊からコーンを齧りとる最初の一口は、なんだか、作り物のおもちゃを齧るような、妙な緊張感がある。
だから、とうもろこしを齧るには、元気がいるのだ。
7月になった途端に鳴かなくてもいいのに、どこからか聞こえる蝉の声に、そう悪態をつきたくなる。
強すぎる日差しが、肌やコンクリートを焼くヒリヒリとした匂いがする。
私の故郷の夏の匂いとは全然違う、街の夏の匂い。
私の故郷で、夏の鮮やかなもの、といえば、宝石を散りばめたように輝く、あの魚だった。
あの橙の体に黒の斑点を散りばめた小さな魚の鱗は、きらきらと密集して、光の当て方を変えると、なだらかにうねって、いろいろな色に輝いて見せた。
角度を変えると紫色になったあの魚の色は、今でもくっきり思い出せる。
生きているって感じの、鮮やかさだった。
遠い、南にあるジャングルだった私の故郷の夏の匂いは、もっと湿っぽくて、むしむしと匂った。
太陽の匂いよりも、濃い緑色の、生き生き茂った葉の匂いがした。
蝉は、他の鳥や獣に声をかき消されながら、しゃわしゃわと鳴いた。
その匂いと蝉の声が、川上からほのかにし始めたら、家族の中でもうすぐ13になろうとする、あの時の私たちのような子どもたちは、水中弓を引く練習を始めるのだった。
あの魚を獲るための練習を始めるのだった。
あの魚を獲ることは、あのジャングル地域に住む子どもたちの憧れで、私の憧れでもあった。
私はおもちゃでいつもあの魚を作った。
小さいのに、トリケラトプスを思わせるように立派に発達した背鰭を、どうにかして再現しようとした。
おもちゃで作り上げたあの魚を眺めながら、あの魚が泳ぐところを、何度も何度も夢想した。
私の憧れが目の前で崩れ去った時の父の言葉は、「もう時代が変わった」だった。
父は、より良い暮らし、より良い仕事、そして、より子どもたちを将来性のある仕事に就かせることを求めて、街へ行く決意をしたのだった。
私の常識は変わってしまった。
釣りよりも弓を引くことよりも、勉強の方が良くて楽しいことだとされるようになってしまった。
私は勉強が嫌いだった。
数字を書いたり、文字を読んだりするより、魚や虫を獲って、水に足を浸す方が好きだった。
けれど大人たちは揃っていった。
「第一産業よりも第二産業、第二産業よりも第三産業の方が儲かるのだ」
「自然と戯れているより、パソコンや工場や、つまり、人の生み出したものと戯れている方が、豊かで幸せな人生になる」
「ここでお金を稼ぐだけ稼げば、じきに、好きな時に好きなだけ自然と遊べるようになるさ」
そうして私は、かつての私の故郷で生きていく術を、牙を失った。
私は大人になった今も街にいて、作り物みたいなとうもろこしに元気を振り絞って齧り付き、人工物と太陽ばかりの街中にじっとりと立ち昇る陽炎に包まれて、街で人の作ったものの数字を捏ねくり回して生きている。
夏の匂いがした。
コンクリートと太陽ばかりの、渇いた夏の匂いだった。
風に、白い布がはためく。
薄い影が、カーテンの表皮をなぞるように動く。
そっとキスされたようにいつのまにかできていた、虫刺されのふくらみを、無意識にひっかいた。
カーテンが、誘うように風にはためく。
薄い影が、カーテンのひだに浮き上がるように動く。
カーテンの向こうにいる何者かたちの姿は見えない。
なめらかな曲線の輪郭だけが、まるで誘惑をするかのようにくっきりと、カーテンの表皮を滑っていた。
私はただ、その不思議な影と涼しげにはためくカーテンとを、ただ眺めていた。
私がいる方は、ひどく蒸していた。
中途半端に上がり続けた気温と湿度とが、ねっとりと絡み合い、肌に不快な空気を醸成していた。
影はなめらかに、まるで蒸している不快な肌触りの空気などないかのように、優美に動き、カーテンの中を自由に、するすると這い回っていた。
私はただ、この状況に冷静な分析も客観的な視点も持てずに、得体の知れないその影に目を奪われ続けていた。
その影は、人間の女のようになめらかで美しい曲線を持ちながらも、明らかに五体よりもずっと多い付属品を、巧みに、滑らかに操り続けていた。
その数々の腕に抱きすくめられ、撫でられている、ひかえめでなめらかな少女のような曲線が、体をすくめるようにびくり、と動いた。
なにやら、ふんわりとした香りが鼻腔をくすぐった。
そこで、私は初めて、自分が調査員であったこと、そしてこの影の主である未確認生物と、それの恋人らしい人間と、二人が暮らすという家に調査として踏み込んだことを思い出した。
あの、なめらかに優しく動く、多腕の生物を研究所に“保護”するために、ここにいることを、思い出した。
目の前では、相変わらず影が、なめらかに美しく、睦み合って、カーテンの表皮をなぞっていた。
私は唾をのんで、彼女らが満足するまで待とう、と思った。
カーテンを剥ぐことが、私にはどうしてもできなかった。
その石は、ひんやりひんやりと、判断力を吸い続けていた。
判断力を、遠慮していた心を、臆病な気持ちを、倫理観を、その石は静かに静かに吸い続けている。
石の奥、一番奥の芯は青く深く、ひたすら渦を巻く青が広がっている。
深い、深い青が、手の中に収まるくらいわずかな石の中に閉じ込められている。
これは永遠の幸せなのです。
誰かが言った。
その石は、青く深く、深海のように澱めきながら、青く、深く、輝いていた。
光を、日光を、色を吸い込むような青く深い闇で、強い決意を、体温を、吐き出しながら、青く深く輝いていた。
青く深く、ドクドクと脈打つ。
この石は確かに、永遠の幸せだった。
この石のために、大人になってまで私をイビリに現れた、学生時代のいじめっ子の友人を、バラバラにして鞄に詰めた。
あの薬と出会わせてくれたのもこの石だった。
青く深く脈打つ。
この石は、私に青く深く脈打つ幸せを届けてくれた。
殺しはまだバレていない。
薬もまだバレていない。
石のもたらす幸せも、誰にもバレていない。
私は自由だ。
石のおかげで、罪悪感や恐怖や毎日の悪夢と引き換えに、自由と幸せを手に入れたのだった。
今でも、犯罪がバレる悪夢は見る。
石を失い、元の生活に戻ってしまった悪夢を見る。
しかし、夢は所詮夢だ。
最近は朝が待ち遠しい。
夢から覚めれば、私は自由でそして、幸せだ。
石は深海を思わせるように青く深く脈打っている。
鮮やかに、深く、青く。
私は石を握りしめる。
私の中に幸せが、青く深く脈打つ。