夏になったら、その“選抜”は始まるのだった。
梅雨が明けた。
天気予報はこぞって、陰気で湿った雨の季節が終わりを告げたことを祝っていた。
眩しい日の光が、自宅の窓際にまで届いていた。
キーボードを押し込んでいた指から力を抜く。
窓の外は当たり前のように晴れていた。
青い空が、一面空を覆っていた。
夏になったら、“選抜”が始まるのだった。
この街が夏を終えるためには、“天使”がいる。
暑い日差しの中で、いろいろな無念や恨みや渇きを抱えたまま、スイッチを落とすように簡単に、人生を終えたありとあらゆる生き物たちのために。
あの大天災で消えた全てのものと、暑い暑い夏の太陽と、陽炎と一緒に、地の底に沈み、彼らを帰していく、
“天使”が要る、のだ。
夏になったら、“選抜”が始まるのだ。
この夏、今年の夏と共に埋葬されるに相応しい、“天使”の“選抜”が。
この街では、夏は招かれざるものなのだ。
あの大天災のせいで。
この街では、ただ暑くて陰湿で忌々しいだけの季節なのだった。夏は。
夏なんて、一生来なければいいのに。
夏になったら“選抜”が始まるのだ。
夏になったら、あの大天災がもう一度、始まるのだ。
だから、この街の人々は、みんな夏を忌々しく思いながら、夏を待っているのだった。
天気予報はこぞって、梅雨明けのニュースを伝えていた。
窓を開けた。
既に空気はからりと暑さを纏い始めていた。
空は抜けるように真っ青に晴れ渡っていた。
太陽は燦々と降り注いでいた。
夏の気配がした。
ほら、目の下を蝿が這い回っているだろう?
マジで死んだんだ、俺は。
ああ、そこのテーブルの皿には、マカロニチーズピザが張り付いている。食べたけりゃ食べると良い。
そこのグラスには、炭酸の抜けた、甘ったるいコークが、日光に晒され続けている。こっちを腹に入れることはおすすめしない。
「まだ見ぬ世界へ!」
見ろよ。
この状況を描写するってなら、
「一字一字切り抜かれた新聞の切れ端が厚紙の上で組み合わさって、詐欺まがいの新世界があることを主張し続けていた。」ってとこか?
君が、そうしてやってきた街は、現実と人間の欲という、既に見慣れたものの指紋でベタベタに汚れたありふれた街だった。
君だって、来るまでに薄々気づいていたはずだ。
新聞の切れ端を使って、霧よりも実態のない夢や希望なんて不確実なものを煽るような広告は、大抵、外道なリアリストの釣り餌でしかない。
頭の中がピンクと花畑で取り返しのつかないくらい一杯になっていなきゃ、どんな腐った脳でも気づける話だ。
ところがなんの因果か、君はそれに乗って来てしまったんだから、仕方がない。
よりにもよって、ヘマこいて死んだばっかりの俺の尻拭きに補充されたなんて、そこらの家なしよりも可哀想に思うよ。
…なんだって?君には選択肢がこれしかなかったって?
いいや、もっといい選択肢は他にあったはずだ。君は選択に失敗したんだ。
……失敗したから、クソみてえな人生を終えたクソみてえな幽霊にこうやって絡まれながら、そいつの死体を目の前に、途方に暮れてるんだろ?
こんなはずじゃなかった、なんて思いながらな。
まあしかし、来ちゃったもんは仕方ない。
後悔ってのは、取り戻せないから後悔っていうんだ。
どれだけ失敗を悔いようが、失敗を認めないでいようが、現実からは逃れられないのだから。
それに、その新聞のスクラップを見て来たんなら、君の選択肢は、考え方によっては、あながち大失敗とはいえないかもしれないしな。
何はともあれ、君は今までとはまた別の世界に足を踏み入れたんだ。
ようこそ、まだ見ぬ世界へ!
ゴーグルを外す。
肉体の重みが戻ってくる。
喉が渇いていたことを思い出す。
現実の質感が体を貫く。
ノロノロと手を伸ばし、水道水を飲む。
それから、2錠のカプセル剤を取り上げて、喉の渇きに任せて飲み込む。
もうすぐ、この肉体ともおさらばだ。
私の身体は、何かを飲み込むのがとても下手だった。
錠剤のような小さなものでさえ、喉に水を渇望させて、生理的な渇きにかこつけて飲まみこまなければ、喉に引っかかってしまうのだった。
昔から、自分だけできない、というのが多い人間だった。
当たり前にできるはずの当たり前は、できないことの方が多かった。
でもそれももう終わる。
メタバース技術の発展し尽くして、五感を取り込むようになり、それを利用した人類の意識の統合が可能となってから、随分経った。
そして、政府が「より良い未来」「強固な安全」を実現するために、国民の意識の統合を推奨し始めて、今日で一年になる。
最初は、もっと早く、意識を統合するつもりだった。
しかし、時間がかかってしまった。
脳を電脳データにするのにもお金がかかるのだ。
働いてお金を貯めた。
喉が掠れるまで働いて働いて働いて、私はようやく、電脳データになるための、2錠のカプセル剤を手に入れたのだ。
もうすぐ意識は薄れるだろう。
大動脈に防腐剤が流れ込み、脳には静かな睡眠剤が満ちて、私は肉体から解放される。
肉体が、自分のものでなくなるような感覚がした。
ゆっくりと意識が薄れ始めた。
いつか、全身麻酔をされた時の感覚と似ていた。
掠れた喉が、小さく声を上げた。
防腐剤に覆われ始めた私の肉体が、小さく呻いたのだった。
最後の声だ。確信した。
これが私の最後の声になるだろう。
だんだんと、肉体の重みが抜けていく。
腹や胃が、まるで自分のものでないただの袋になり、肩から力が抜け、喉が透明になり、太ももが消える。
まだかろうじて私のものである耳が、もう私のものではない、肉体の最後の声を聞いている。
意識が浮遊していく。
肉体が少しずつ、私から離れる。
意識が浮遊していく。
頬に、触れた。
死んでしまったら、私というこの頭の中の葛藤はどうなるのか。
何度考えても、いくら考えても、結局これといってまとまった考えは出てこなかった。
痛みを失った視界が、徐々に遠くなるのに合わせて、そっと目を閉じた。
燦然と頭の中に散らばった考えや思い出や知識や何かが、水面のようにさざめき、霧散していく。
泥のような暗い何かが、意識の隅からぐるぐると押し寄せてくる。
これが死ということだろうか。
そんな気がした。
頬の位置まで持ち上げた手は、頬に触れたまでが精一杯だったというように、びたりと動かなかった。
動かせない手の指先に、ひっきりなしに透明の涙が濡れた。
拭うこともできない指に、涙はゆっくりと降り注いでいた。
手に染み込んでいく涙は温かった。
それは血を流しているようにも思えた。
悲しみも痛みも苦悩も恐怖も失って、ただ泥のように暗い何かに霧散していくことを、待ち続けている私に変わって、血を流してくれているようだった。
顔ももう見返すことはできなかった。
ただ、その柔らかな頬と温い涙の持ち主が、私を心の底から悼んでいる、ということだけは伝わってきた。
それは愛である気がした。
死に際に初めて見つけた、初めて受け取れる、小さな愛のような気がした。
何もなかった。
何もなくて、何もなかったからこそ、生死をかけたこの職務に携わった。
常に死を意識しながら生活し、そしてここで死ぬのだった。
愛なんて、期待していなかった。
なのに。
死ぬ際になって、私の指先は、小さな愛で濡れていた。
大して親しくもない、それでも少しの間、生活を共にした仲間の、小さな愛だった。
小さな愛が、私の手先を濡らしていた。
泥のような暗闇がとぐろを巻いた。
感覚は、霧散し、現れ、霧散し…まるで波のように途切れ途切れに押し寄せた。
考えは、思い出は、さざめきのようにゆらゆらと霧散し続けていた。
涙が、手を濡らした。
小さな愛が、滴り落ち続けていた。
焼き切れた靴が転がっている。
くすんだ大地に立ち、沈黙と恐怖に刺し貫かれた私たちの上に、快晴が横たわっている。
空はこんなにも青いのに。
皆、呆然と目の前の現実をただ見つめていた。
焼き切れた靴が転がっている。
ところどころ放電に黒く焦がされた服が、力なく泥に汚れている。
千切れた有刺鉄線は、水たまりに切れ端をつっこんで、放電し続けている。
一度足を止めると、もう足がすくんでしまう。
有刺鉄線はバチバチと剣呑な音を立てて、私たちを威嚇し続けている。
空はこんなにも青いのに。
雨が降ったのは、昨日のことだった。
降り頻る雨は、ボタボタと重たく、ザァザァと激しく、チャパチャパと優雅だった。
激しい雨と濡れた寒さに寄り添い、残酷な現実を耐え凌ぎながら、明日は晴れるだろう、ただその予測だけを希望にして、私たちはやっと、今日を迎えたのだった。
果たして、今日という日の空は、晴れ渡った。
昨日の雨が嘘のように、カラッとした日光が地面いっぱいに降り注ぎ、外に踏み出した途端、むわっとした暑さが顔に感じられるほど、今日の空は青かった。
空はこんなにも青いというのに。
身体の芯が、焼け落ちてしまったような気分だった。
身体の芯の芯、奥底にある、私たちが私たちであるための最も大切なカラフルな何かが、あっという間に炎に捲かれ、焼き焦げ、白黒の灰のように焼け落ちて、ものも言わず、希望を沸かせることもなく、ただただ、黙ってうず高く積もっているような気分だった。
空はこんなにも青いのに。
誰よりも仲間思いで真っ先に勇気を示した仲間は、分厚い電圧の流れる有刺鉄線の尖った切れ目に、ズック靴の横っ腹を刺し貫かれて、沈黙していた。
仲間だった物体の集合体が、ビクンと跳ね上がり、ただの物質となってダラリと落ちて、地面の泥を染みとして吸収していく様を、私たちはまざまざと目にすることに、なったのだった。
空はこんなにも青く、
そして、空はこんなにも広いのに。
水たまりの影響で多少ぬかるんだ地の中に、根でも生やしたかのように、私たちの足は、今や一歩も動かなかった。
有刺鉄線を飛び越えることも、くぐることも、元来た道を引き返すこともできず、私たちはただ茫然と、ぐったりと泥に濡れゆくばかりの私たちの一部だった仲間の果てと、有刺鉄線とを見つめていた。
根を植え付けられたまだ幼い大樹の、弱々しい苗のように。
私たちは一歩も動けず、動かず、ただ目の前の痛々しい現実を眺め続けていた。
雨は止んでいて、快晴だった。
カラッとした日光が降り注ぎ、ムワッとした生命力旺盛な夏の暑さが、身体中を包んでいた。
それでも、私たちは立ち尽くしていた。
これからの何もかもが燃え尽きて、白と黒をした死んだ灰のような気がした。
もう私たちのこれからに関わる何もかもが死んでしまって、私たちはもう終わっているような感覚だった。
頬を水分が伝っていった。貴重な水分が体外へ流れ出していった。もうどうでもよかった。
空はこんなにも青いのに。
空はこんなにも広いのに。
私たちはただじっと、泣いていた。
足を地面に縫い付けて、ただじっと。