薄墨

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ゴーグルを外す。
肉体の重みが戻ってくる。
喉が渇いていたことを思い出す。

現実の質感が体を貫く。
ノロノロと手を伸ばし、水道水を飲む。
それから、2錠のカプセル剤を取り上げて、喉の渇きに任せて飲み込む。

もうすぐ、この肉体ともおさらばだ。
私の身体は、何かを飲み込むのがとても下手だった。
錠剤のような小さなものでさえ、喉に水を渇望させて、生理的な渇きにかこつけて飲まみこまなければ、喉に引っかかってしまうのだった。

昔から、自分だけできない、というのが多い人間だった。
当たり前にできるはずの当たり前は、できないことの方が多かった。

でもそれももう終わる。

メタバース技術の発展し尽くして、五感を取り込むようになり、それを利用した人類の意識の統合が可能となってから、随分経った。
そして、政府が「より良い未来」「強固な安全」を実現するために、国民の意識の統合を推奨し始めて、今日で一年になる。

最初は、もっと早く、意識を統合するつもりだった。
しかし、時間がかかってしまった。
脳を電脳データにするのにもお金がかかるのだ。

働いてお金を貯めた。
喉が掠れるまで働いて働いて働いて、私はようやく、電脳データになるための、2錠のカプセル剤を手に入れたのだ。

もうすぐ意識は薄れるだろう。
大動脈に防腐剤が流れ込み、脳には静かな睡眠剤が満ちて、私は肉体から解放される。

肉体が、自分のものでなくなるような感覚がした。
ゆっくりと意識が薄れ始めた。
いつか、全身麻酔をされた時の感覚と似ていた。

掠れた喉が、小さく声を上げた。
防腐剤に覆われ始めた私の肉体が、小さく呻いたのだった。
最後の声だ。確信した。
これが私の最後の声になるだろう。

だんだんと、肉体の重みが抜けていく。
腹や胃が、まるで自分のものでないただの袋になり、肩から力が抜け、喉が透明になり、太ももが消える。

まだかろうじて私のものである耳が、もう私のものではない、肉体の最後の声を聞いている。

意識が浮遊していく。
肉体が少しずつ、私から離れる。
意識が浮遊していく。

6/26/2025, 10:40:52 PM