後ろ姿が見えない。
声も聞こえない。
残っているのは、足跡だけ。
足跡を消さないように、慎重に追いかける。
早く追いつきたいけど、足跡は消してしまいたくない。
あなたがここにいた、という痕跡を消すことはできない。
だから、必死に、けれど慎重に、一つ一つ、あなたの実績を追いかける。
あなたが今、どこを走っているか。
どれだけ前を走っているか、分からないけど。
それでも諦めたくはなかった。
どんなに離れていても、追いかけるのだけは、やめたくなかった。
あなたは優しかった。
もっと速く、もっと美しく、もっとぐんぐん走れるのに。
あなたは後輩の足並みに揃えてくれた。
丁寧に教えてくれ、助けてくれた。
だから、あなたが大きな世界に行けることになって、
私たちという枷から解き放たれて、
自由に走れるようになって、
あなたはあっという間に遠くへ行ってしまった。
けれど私は知っている。
あなたを。
周りの人々に気を使って、足を休めていたあなたの、疲れ切った顔を。
僻みや妬みに心を砕いて、一時的に走れなくなったあなたが流した涙を。
あなたは私の憧れで、そして私が最も理解したい人だったから。
だから、私はあなたを追いかける。
必ずあなたに追いついてみせる。
どんなに離れていても。
あなたが、泣いたり、疲れ切ったりした時に、隣であなたに肩を貸せるように。
「ほう ほう ほーたるこい」
「こっちの水はあーまいぞ」
陽気な声が響く。
あちらこちらで小さな光が浮かんでは消えを繰り返している。
「こっちにこーい」
無邪気な命令口調が、静かな闇夜に飛び交う。
蒸し暑い夏の川の夜。
蛍も、恋のまたたきを繰り返して、飛び交っている。
ほのかな光が、弱々しく近づいてくる。
腕に止まるほど近くにいる蛍は、結構虫だ。
黒い滑らかな羽の下に、うだうだの脚を覗かせて、うぞうぞと動いている。
子どもたちに言われた通りにこっちに来た蛍は、力なく尻を光らせて、動いている。
「こっちに恋」なんて、脳内お花畑な誤変換で、舞い上がっていたあの日が懐かしい。
「愛に来て」なんて、バカみたいな返信を打ち込んで、浸っていたあの日が懐かしい。
失恋をしたのは、あの人が子どもを愛せる人ではなかったから。
人の子どもに余すことなく愛を注ぎたい、私の気持ちを疑ったから。
引率で連れてきた子どもたちは、無邪気に蛍を呼んでいる。
その蛍が近づいたらこんなに醜いなんて。
蛍たちが光っているのは、自分の遺伝子を残したいだけの、下心満載の、ごちゃごちゃした生存競争であるなんて。
蛍を眺める、彼らにはまだ分からないことだろう。
「ほう ほう ほーたるこい」
「こっちの水はあーまいぞ」
陽気な声があちこちで飛び交っている。
「こっちにこーい」
無邪気な命令口調が響く。
ポルボロンは、口の中で砕ける。
ほろほろした欠片を噛み、飲み込む。
ポルボロンを口に入れて、「ポルボロン」と言えたためしがない。
私の願いを叶える気がないのだろう。
けれども、アーモンドプードルが香るほのかな砂糖の甘みが口の中で解けた時、一瞬でも幸せだ、と思ってしまう。
悔しくもあり、嬉しくもある。
ポルボロンが口の中で砕ける時は。
この妙な名前のお菓子を定期的に食べるようになったのは、当然ながら、スペイン旅行へ行ってからだった。
ふらりとお菓子屋さんに入ったその日が、お店を挙げてのお祝いの日だったのだ。
そこでいろいろ教えてもらった。
ポルボロンの言い伝え。
口の中で崩れる前に3回「ポルボロン」と唱えれば、願いが叶うということ。
ポルボロンの味。食感。
ちんすこうみたいに、ほろほろに崩れるのだ、ということ。
そして、人を想う切実な願いが叶いそう、という希望はどんなに胸を焦がすか、ということ。
願いが、願望が、どれだけ胸を焼くか、ということ。
「気に入ってくれてよかった。このポルボロン、僕が作ったんだ」そう言って笑う、まだ修行の身の青年の笑顔の眩しさ。
そしてポルボロンが砕ける前に、口の中で「ポルボロン」と3回唱えるのが、どれだけ難しいか、ということ。
毎日通った。
ポルボロンのお菓子屋さんに。
店長さんともすっかり仲良くなって、お店に私的なお手紙を出せる栄誉までいただいた。
当然ながら、帰国しても私はその巡り逢いに、ポルボロンに囚われていた。
今でも定期的にお手紙を書き、定期的にお手紙をもらい、ポルボロンを食べる。
店長は何もかも分かっていたみたいで、毎回、あの青年がこしらえたポルボロンが、いくつか届く。
そうして、私は懲りずに毎回、チャレンジをする。
ポルボロンを崩さずに、「ポルボロン」と唱えることを。
あの巡り逢いを、一期一会で終わらせたくない、と願いながら。
毎回、ポルボロンをそうっと口の中に入れる。
けれども願い虚しく、いつもポルボロンは、口の中で解ける。
アーモンドプードルの香りを纏った、砂糖の甘味を衣のように脱いで。
いつ、私は「ポルボロン」と唱えられるようになるのだろう。
公園の葉桜を眺めながら、私はもう一つ、ポルボロンを手に取って、そっと口に入れる。
ポルボロンはそっと砕ける。
甘くて美味しい味がふんわりと広がる。
「珍しいものを食べてますね」
ふと、声をかけられた。
久しぶりに聞く、ポルボロンを食べるたびに焦がれた声が、いきなり。
どこまでも行ける気がして、むしろワクワクしながら、「どこへ行こう」と呟けたあの日。
それが本当の幸せだったことに気づけなかったのは、若いということだったのかもしれない。
「どこへ行こう…」
地図を開いて、途方にくれたままで呟く。
僕には居場所がどこにもない。
おたずねものであり、もう人ではない僕には。
ずっと生きていたいだなんて、そんな馬鹿げた願いを抱いたのは、僕の持病が悪化してから。
今夜が峠、なんて言葉を何度も聞いて、しかし、気力だけで生きていた僕に、ある晩、何かが囁いた。
「永遠の命をあげようか」
僕は頷いた。
ほしいと願った。
あの日の僕は、刹那ばかりを生きていて、永遠の本当の長さを知らなかった。
僕は奇跡的に生きた。
僕の回復を祝う煩雑なてんやわんやを経て、自由と永遠を手に入れた僕は、あの日、ワクワクしながら呟いたんだ。
「どこへ行こう!」
いろいろなところへ行った。
旅行で行ってみたかったところ。
やってみたいことをしているワークショップ。
見たかったものを所蔵している館。
一度見てみたかった景色。
一度体験してみたかったこと。
一度生きたかった生き方。
いろんなことをして、いろんなことを見た。
そのうち、時間を持て余すようになって、
他にもっといろんなことをした。
なにしろ時間はたっぷりあった。
なんでもできた。どこへ行こう。
経験してみたいとは思っていなかったけど、誰かが良いものだ、と言っている経験をとりあえずしてみた。
一度やってみたことをもう一度してみた。
何度も周回してみた。
やっているうちに分かった。
一度やってみたかったことは、本当に“一度”やってみたかったことなんだ、と。
二度目以降は完全に蛇足で、辛さや楽しさを知っているからこそ、うんざりするものなんだ、と。
人間の精神は、一度ぶんの経験に耐えうる強さしか持っていないんだということが。
僕には時間があった。
永遠に。
「どこへ行こう」
僕は途方にくれて、呟く。
僕には時間がある。
僕はどこにだっていける。
永遠に。
どんなに酷い現実でも向き合えるのに、
子どもを庇った誰かの果てだけは、
直視できないあなたが好き。
私よりずっと心が強いのに、
救えなかったものをしっかり覚えていて、
ときどき眠れなくなっているあなたが好き。
ムカつく理不尽なことがあっても、
事情があっただろうから、なんて言って、
怒ることすらできないあなたが好き。
私よりずっと冷静で、正義だって振りかざせるのに、
そんな資格は自分にはない、と言い切って、
ずっと変わらずあなたのままのあなたが好き。
私たちを遠巻きに見て、あなたを嫌っていた
同級生さえも許していて、
仕返しどころか見返すってことすら口にしないあなたが好き。
私の言動を訝しみながら、
それでも優しさゆえに私を突き放せなくて、
結局、一緒にいてくれるあなたが好き。
いつもどこか諦めていて、冷めたようで、
記念日なんて覚えてないような顔をしているのに、
誕生日プレゼントは毎年忘れないあなたが好き。
誰よりも深くて大きな愛を持っているくせに、
誰より人間に寛大で、大きな愛を持っているくせに、
私の分かりやすくアピールしている愛には気づけない、鈍感なあなたが好き。
きっと、あなたは一生分からないのだろうね。
「big love!」と叫ぶ周囲の人たちのことも。
私のやっていることも、気持ちも。
でも私はそれでもいいの。
それでも好きだわ。
あなたの思う通りに、生きてほしいの。
だから、私の誕生日まで、
あなたの好きなものをご馳走させてね。