薄墨

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どこまでも行ける気がして、むしろワクワクしながら、「どこへ行こう」と呟けたあの日。
それが本当の幸せだったことに気づけなかったのは、若いということだったのかもしれない。

「どこへ行こう…」
地図を開いて、途方にくれたままで呟く。
僕には居場所がどこにもない。

おたずねものであり、もう人ではない僕には。

ずっと生きていたいだなんて、そんな馬鹿げた願いを抱いたのは、僕の持病が悪化してから。
今夜が峠、なんて言葉を何度も聞いて、しかし、気力だけで生きていた僕に、ある晩、何かが囁いた。

「永遠の命をあげようか」

僕は頷いた。
ほしいと願った。

あの日の僕は、刹那ばかりを生きていて、永遠の本当の長さを知らなかった。

僕は奇跡的に生きた。
僕の回復を祝う煩雑なてんやわんやを経て、自由と永遠を手に入れた僕は、あの日、ワクワクしながら呟いたんだ。
「どこへ行こう!」

いろいろなところへ行った。
旅行で行ってみたかったところ。
やってみたいことをしているワークショップ。
見たかったものを所蔵している館。
一度見てみたかった景色。
一度体験してみたかったこと。
一度生きたかった生き方。

いろんなことをして、いろんなことを見た。

そのうち、時間を持て余すようになって、
他にもっといろんなことをした。
なにしろ時間はたっぷりあった。
なんでもできた。どこへ行こう。
経験してみたいとは思っていなかったけど、誰かが良いものだ、と言っている経験をとりあえずしてみた。
一度やってみたことをもう一度してみた。
何度も周回してみた。

やっているうちに分かった。
一度やってみたかったことは、本当に“一度”やってみたかったことなんだ、と。
二度目以降は完全に蛇足で、辛さや楽しさを知っているからこそ、うんざりするものなんだ、と。
人間の精神は、一度ぶんの経験に耐えうる強さしか持っていないんだということが。

僕には時間があった。
永遠に。

「どこへ行こう」
僕は途方にくれて、呟く。
僕には時間がある。
僕はどこにだっていける。
永遠に。

4/23/2025, 10:52:55 PM