どんなに酷い現実でも向き合えるのに、
子どもを庇った誰かの果てだけは、
直視できないあなたが好き。
私よりずっと心が強いのに、
救えなかったものをしっかり覚えていて、
ときどき眠れなくなっているあなたが好き。
ムカつく理不尽なことがあっても、
事情があっただろうから、なんて言って、
怒ることすらできないあなたが好き。
私よりずっと冷静で、正義だって振りかざせるのに、
そんな資格は自分にはない、と言い切って、
ずっと変わらずあなたのままのあなたが好き。
私たちを遠巻きに見て、あなたを嫌っていた
同級生さえも許していて、
仕返しどころか見返すってことすら口にしないあなたが好き。
私の言動を訝しみながら、
それでも優しさゆえに私を突き放せなくて、
結局、一緒にいてくれるあなたが好き。
いつもどこか諦めていて、冷めたようで、
記念日なんて覚えてないような顔をしているのに、
誕生日プレゼントは毎年忘れないあなたが好き。
誰よりも深くて大きな愛を持っているくせに、
誰より人間に寛大で、大きな愛を持っているくせに、
私の分かりやすくアピールしている愛には気づけない、鈍感なあなたが好き。
きっと、あなたは一生分からないのだろうね。
「big love!」と叫ぶ周囲の人たちのことも。
私のやっていることも、気持ちも。
でも私はそれでもいいの。
それでも好きだわ。
あなたの思う通りに、生きてほしいの。
だから、私の誕生日まで、
あなたの好きなものをご馳走させてね。
「私ほど、あなたを愛している者はいないわ」
きゅっと目を釣り上げて、艶やかに笑うささやきは、天使のささやきか、悪魔のささやきか、分からなくて。
何かを企んでいるのか、それとも本当に私を想ってくれているのかも分からないから。
そのシャム猫みたいな素敵な笑顔に、私は変わり映えのしない、曖昧で精一杯の、ゴミみたいな笑顔で、「そうだね」と答える。
背が高くて、美しく、頭脳明晰で、ミステリアスで、気品のある、皆の憧れだったあなたが、どうしてこんな私にいつまでも、付き纏っているのかも、私には分からない。
「ごきげんよう」
高校一年の教室、あなたが私の隣で優雅にそうささやいた時、冴えない高校生の私はすでに孤立していた。
なんてことはない。自業自得だ。
その時私は、ずっと初恋を拗らせていた一歳年上の幼馴染の異性に、土下座までして関係を持っていた。
幼馴染は私のことを見ていなかったのに。
プライドも外聞もなく、ただ、幼馴染の何者かでいたいがために、私は、幼馴染の都合の良い女でいたのだ。
それが、学校中に知られていたから。
私は孤立していた。
当たり前なのだ。
同性目線で客観的に見たら、私のような、恥も外聞もプライドも貞操もない、そんなバカ女、誰も好きにならない。
誰も。
同性も、先輩も、後輩も、同級生も、幼馴染だって。
でも、私はそうすることをやめられなかった。
こんな最低な関係を受け入れる幼馴染のどこが好きなのか、自分でも分からなかったけど。
それでも私は幼馴染が好きだった。
離れたくなかった。
というわけで、当時、世界の全てから嫌われていたこの私に、あなたは声をかけてきたのだ。
全く普通に。
シャム猫のように目を釣り上げて、優雅に笑って。
それから、あなたは私に付き纏うようになった。
いつも人に囲まれているくせに、移動教室やトイレや帰宅の時には、いつの間にか、しゃなりと猫のように私の横に現れて、隣で歩いている。
そして、シャム猫のような笑顔で、「好きよ」なんて吐く。
周囲の人間は、遠巻きに見ていた。
それはずっと続いた。
社会人になって、しかし相変わらず幼馴染との関係を続けながら、一人暮らしには躊躇するような収入で働く私に、「シェアハウスをしよう」と救いの手を持ちかけてきたのも、あなただった。
「なんで、そんなに私となんかいるの?」と何度も聞いた。
その度にあなたは、目を釣り上げた、優美なあの笑顔で私にささやくのだ。
「あなたが好きだから。愛しているからよ」
あなたは、私と幼馴染の関係にも何も言わない。
幼馴染がもうすぐ結婚する、という話が同窓会で出ていても、
私が幼馴染に呼び出されて、家を出る時も、
「あなたの好きにしたらいいの」
シャム猫みたいな気品に溢れたあの笑顔で、いつも私にそうささやく。
正直、私には分からないのだ。
私がなんで幼馴染との関係を続けているのか。
なぜここまで、あなたが私を気にかけてくれているのか。
あなたのささやきは、嘘なのか本気なのか。
分からない、分からないことだらけだ。
こうしている間も、あなたは私に顔を寄せてささやく。
「今日のディナーはあなたの好物にしましょう。もうすぐ誕生日が近いの」
シャム猫のような、柔らかく優美な笑顔で、あなたはささやく。
私はそのささやきに込められた本当の意味も好意も、半分も受け止められずに、頷く。
私の隣で、あなたは優雅に鼻歌を口ずさんでいる。
高校の時から変わりなく、本当に私といることが楽しいかのように。
私にはあなたのささやきの真意が、理由がわからない。
きっと、私には一生分からないのだろう。
びっしりと星のひしめく空を見上げる。
そっとため息が出る。
ため息が出たら、なんだか肌寒い気がして、コンビニで買ったコーヒーに口をつける。
おっかなびっくりカップを傾けて、ホットコーヒーを口に含む。
熱い。
苦い。
コンビニのホットドリンクの、プラスチックの蓋は、ちょっと怖い。
保温性抜群なのに飲み口が小さすぎる。
しっかり傾けないと飲めないし。
猫舌子ども舌の私には、ちょっと理不尽なギャンブル性が高いカップだ。
でも、今はそのハラハラ感がかえってありがたい。
コーヒーを飲むためにプラスチック蓋に頭を悩ませている間は、難しいことを考えなくて済むから。
今日は月が出ていない。
ただ、夜空をびっしりと埋め尽くす無数の星明かりが、足元を照らしている。
白い花すら、ほのかに光って見える。
静かな星明かりの下を、歩く。
コーヒーカップを傾けて、慎重にコーヒーを口に含みながら。
いつもなら、こんな時間に出歩いたりしない。
でも今日は、今日だけは散歩がしたい、と思ったのだ。
ミスを重ねてしまった週の終わりが、飲み会だった。
上司はみんな優しくて、しっかりした職場だから、会はずっと楽しいまま、幕を閉じた。
嫌味も説教も何も言われなかった。
良い感じに酔いがまわるまで飲んで、話して。
ただ、楽しく喋って、楽しく帰ってきた。
そう。
楽しく帰ってきてしまった。
今週、私はダメダメだったのに。
一人で歩いている間に、モヤモヤしてしまったのだ。
思ってしまった。
こんな、ダメな、やるべきこともできていない半人前の私の週末が、こんなに楽しく、穏やかなものであっていいのだろうか、と。
直属の上司からお説教の一つ、苦言の一つ受けるのが、今週絶不調だった私の勤めではないのだろうか。
職場に不満があるわけじゃない。
上司に不満があるわけではない。
ミスをきちんと指摘して、きちんと対処法を教えてくれて、一緒に謝ってくれる。
むしろありがたいくらい。
だからこそ、ふと思ってしまう。
私はこのままここにいて、こんな心地良い環境にいて、いいのだろうか、と。
冷静に考えれば、この環境は、学生時代の私が、努力と思考と運で手に入れた環境だ。
だから、だから、その努力に報いるためにも、ここは私がいるべき場所。
いつもならそう思えるのだけど。
…ちょっと飲みすぎたようだ。
今日は後ろ向きな想像が、頭を埋め尽くしていた。
職場のために、私はここにいるべきではないとか。
私は生きていていいのかとか。
なんでこんな幸せを、苦労のない状況を、私なんかが享受しているのかとか。
真っ直ぐ家に帰ったら、そんな考えで腐ってしまいそうな気がした。
だから、散歩をすることにした。
星明かりで、頭を冷やすことにした。
コーヒーをゆっくり口に含む。
プラスチックの小さな飲み口から、口内に飛び込んだコーヒーは、まだ熱い。
空を見上げる。
びっしりと星がひしめいている。
あんなにたくさんあるのに、光量は大したことない。
ほのかな星明かりが、夜を照らしている。
コーヒーを一口飲みこむ。
ホッとする温かさと渋い苦味が、口の中いっぱいに広がった。
影だけを 伸ばして触れる 蛸の足
影だけが 伸びて触れ合う 指と指
小さな手を握る。
小さな手たちを握り、手を引いて、私たちは逃げる。
物語の始まりは来なくてもいい。
ドラマチックな悲劇も、
衝撃的なハプニングも、
理不尽な立ち向かうべき困難も、
誰もが羨む実績も、
正しさに裏打ちされた物語も、
幸せを願った英雄譚も、
何かを変革する悲願も、
起こらなくたっていい。
なくていい。
ただ、平和に晴れた空の下で、
平凡に一日が終わっていくのを、
のんびりと小さな幸せを享受できれば、
それだけで。
それだけで、満たされた人生を歩めることを。
物語にはならなくても、自身は幸せであることを。
物語の始まりに捕まって、主人公になったって、その責任をツケを保証をしてくれる人や神なんていないってことを。
物語は誰かを救うかもしれないが、物語を紡いだ登場人物自身を救ってくれるとは限らないということを。
社会がどうあろうと、個人の幸せは、どこまでいってもその個人自身の幸せだということを。
自分の幸せは、結局、自分で折り合いをつけ、自分で理解して、自分で守るしかないってことを。
そして、あなたたちを愛する人間はみんな、そうした物語の性質を理解した上で、自分の生き方を、幸せを見つけてほしいと、望んでいるということを。
私はそれを伝えたいと思っていた。
私よりも先の未来を抱えた、その小さな手の持ち主たちに、伝えて、逞しく幸せに生きてほしかった。
しかし、皮肉にもそうやって考え、大それたことなんてやろうとしないで生きてきた私たちの元に、物語の始まりはやってきた。
侵入者がやってきて、この地は物語の舞台と化した。
ドラマチックな悲劇が、
衝撃的なハプニングが、
理不尽な困難が、
成し遂げなくてはならない実績が、
正しさに裏打ちされた物語が、
誰かの英雄譚が、
誰かの変革が、
この地に流布され、溢れ出した。
華々しいそれらは、私たち個人の幸せなど、微塵も保証してくれないのに。
私たちは、物語の始まりに、悲劇に呑まれて、物語の俎上に載せられた。
小さな子どもたちの、胸や脳に、物語の始まりは今くっきりと始まってしまったのだろう。
しかし、私はそれでも、彼らを逃がしてやりたい。
他ならぬ、彼らの幸せのために。
彼らが、物語にこだわらずに、自分の人生を歩めるように。
私たちは逃げ惑う。
物語の始まりから。
逃れられない物語から。
それが、私たち個人の幸せとは限らないから。
私は小さな手たちを引く。
怒号と、剣呑な音と、無数の物語が、散らばっている中を。
私は、私たちは逃げ惑う。