薄墨

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小さな手を握る。
小さな手たちを握り、手を引いて、私たちは逃げる。

物語の始まりは来なくてもいい。

ドラマチックな悲劇も、
衝撃的なハプニングも、
理不尽な立ち向かうべき困難も、
誰もが羨む実績も、
正しさに裏打ちされた物語も、
幸せを願った英雄譚も、
何かを変革する悲願も、
起こらなくたっていい。
なくていい。

ただ、平和に晴れた空の下で、
平凡に一日が終わっていくのを、
のんびりと小さな幸せを享受できれば、
それだけで。

それだけで、満たされた人生を歩めることを。
物語にはならなくても、自身は幸せであることを。
物語の始まりに捕まって、主人公になったって、その責任をツケを保証をしてくれる人や神なんていないってことを。
物語は誰かを救うかもしれないが、物語を紡いだ登場人物自身を救ってくれるとは限らないということを。
社会がどうあろうと、個人の幸せは、どこまでいってもその個人自身の幸せだということを。
自分の幸せは、結局、自分で折り合いをつけ、自分で理解して、自分で守るしかないってことを。

そして、あなたたちを愛する人間はみんな、そうした物語の性質を理解した上で、自分の生き方を、幸せを見つけてほしいと、望んでいるということを。

私はそれを伝えたいと思っていた。
私よりも先の未来を抱えた、その小さな手の持ち主たちに、伝えて、逞しく幸せに生きてほしかった。

しかし、皮肉にもそうやって考え、大それたことなんてやろうとしないで生きてきた私たちの元に、物語の始まりはやってきた。
侵入者がやってきて、この地は物語の舞台と化した。

ドラマチックな悲劇が、
衝撃的なハプニングが、
理不尽な困難が、
成し遂げなくてはならない実績が、
正しさに裏打ちされた物語が、
誰かの英雄譚が、
誰かの変革が、
この地に流布され、溢れ出した。

華々しいそれらは、私たち個人の幸せなど、微塵も保証してくれないのに。

私たちは、物語の始まりに、悲劇に呑まれて、物語の俎上に載せられた。
小さな子どもたちの、胸や脳に、物語の始まりは今くっきりと始まってしまったのだろう。

しかし、私はそれでも、彼らを逃がしてやりたい。
他ならぬ、彼らの幸せのために。
彼らが、物語にこだわらずに、自分の人生を歩めるように。

私たちは逃げ惑う。
物語の始まりから。
逃れられない物語から。

それが、私たち個人の幸せとは限らないから。

私は小さな手たちを引く。
怒号と、剣呑な音と、無数の物語が、散らばっている中を。
私は、私たちは逃げ惑う。

4/18/2025, 3:28:01 PM