いない。
どこにも。
どこに行ってしまったのだろう。
目の前の、鏡の中を覗き込む。
いない。
私も。人影一つない。
私はどこ?
鏡の中には、無人の部屋が並んでいる。
平然と並べられた家具。
白いタオル。
奥の壁のタイル。
机の上に乱雑に並べられた瓶と液体。
汚れたコップ。
しかし、そこに私の姿はない。
窓の奥にも。
鏡の奥にも。
私の姿はどこにも見えない。
一体私はどこ?
どこへ行ってしまったのだろうか?
鏡の奥には、生活感のある、見覚えのある部屋だけが広がっている。
私の背後にあるはずの窓も、鏡からくっきりと見える。
その奥にある無数のビル群も。
無機質な街並みも。
私の姿以外のものは、はっきり、くっきりとその存在を主張している。
しかし、私はいない。
私だけは、鏡から閉め出されてどこにもいない。
私はどこだろう。
私は今、どこにいるのだろう。
鏡の前に立っているはずの私は、どこ?
私は存在しているのだろうか。
私は、今鏡の前で身支度をしているはずの私は、
私はどこ?
どこに行ってしまったのだろう。
そもそもの私は、私は、どこ?
平凡な、ただのありふれた人間だと思っていた自分は、こうして、鏡に認められず、写らず、ただ呆然と立ち尽くしている。
立ち尽くしているのかも、自分では認識できない。
私はどこ?
どこへ行ってしまったのだろう。
私は何者なのだろう。
鏡を、鏡の奥に写る、鏡に有ると証明された、家具たちを見つめる。
見慣れた部屋に、私の姿だけが見当たらない。
私だけが写らない。
私は、どこ?
私の、絶望的なそんな質問を。
私の存在を。
ただ鏡は、静かに黙殺し続けている。
私は、どこ?
鏡は、私を写さない。
私がいないことが正しいと、公然と言い放つ。
私は…どこ?
私のそんな困惑に、答えてくれるもの、
そんな存在を、認めてくれるものは、この部屋の、どこにも存在しなかった。
私は……
残酷な沈黙だけが、場を支配している。
鏡は、静かな部屋だけを写し出し続けている。
シャツなんか入れちゃって。
ボタンも上まできちんと留めて。
片膝を立てて。
不意に、取り繕ったキザな仕草で、歌うように折りとった花を差し出す君の、
いつもより大人に取り繕った覚悟の中で、
言葉だけは
「大好き」と
素直で子どもっぽく、年相応のいつも通りの君で。
それだけでなんだか安心した、あの日。
もう戻れないあの日。
私はあの日々が、あの時の君が大好きだった。
そんな記憶が、まだ、私を生かしている。
生きるのを躊躇う私を
もういない君の、あの日だけがまだ…
命全不叶夢
朝啜粥酔趣
昼貪魚酔金
夜溺肉酔酒
皆酔生夢死
生不能二度
死醒夢一蹴
皆胡蝶夢中
命全不叶夢
命は全て叶わぬ夢なり
朝は粥を啜りて趣に酔い
昼は魚を貪りて金に酔い
夜は肉に溺れて酒に酔う
皆、酔って生き、夢のまま死す
生きることは二度能わず
死は夢を一蹴にして醒ます
人は皆、胡蝶の夢の中
命は全て叶わぬ夢なり
Life is just a pipe dream
We greed eating better gruel in morning,
We wish get hold of money quicly in daytime,
We desire strong thrilling time in night
Our life is a fleeting dream
We can't return time so far,
Grim reaper come in the blink of an eye
Our life like ephemeral dream
Life is just a pipe dream
その子は、花の香りと共に現れた。
むせかえるような花の香りに連れられて、やってきたのだった。
ほぼ香害とも思えるほどに匂い立つ花の香りの中で、小さな靴に足を納めた君の、茶色い澄んだ目を見た時に、私は決心をしたのだった。
「…分かりました。この子を預かりましょう」
この子の目を見るまでは、預かり乳母などするつもりはなかった。
妊娠して、住み込みで家庭教師として働いていたあの家を追い出されてしまい、困っていた私を引きずるようにして、友人は、この乳母斡旋所に私を連れてきた。
家でもう一人子を預かるだけだから!
登録だけ!登録だけしておこう?
収入源が何もないのは困るでしょ?
何度も宥めすかしながら、友人はしかし、最終的には渋る私を斡旋所に登録せしめた。
登録だけだよ、
私にそう言わしめた。
そして今日、果たして仕事の依頼がやってきたのだった。
断るつもりだった。
冷静に考えたら、いや考えなくとも、二人も子どもを育てる自信なんてなかった。
ましてや人様のお子なんて!
今回の依頼の報酬は素晴らしく良かったが、一方で預かり期限は無期限…つまり、口減しとしての預けだと暗に書かれていた。
だから不安だった。
他人の子の一生をもう一人分背負う自信はなかった。
いくら母親を雇う先は少ないとしたって、探せば針子や、畑の手伝いなどの日雇い仕事だってあるだろうし、最悪、水商売という手もなくはない。
だから、断るつもりだったのだ。
しかし、花の香りと共に現れた子の、あの目を見て、私は引き取ることを決めたのだ。
その依頼主は、前情報からして、さして裕福ではないはずだった。
上流階級の者ではなく、労働者階級の庶民で、そういう身分に対しての待遇は、分離政策で治められているこの地ではかなり良くなかった。
税もそれなりに重いし、食費を集めるだけでも大変だ。
そんな家にも関わらず、あの子を連れてきた母親は、花の香りをこれまでかというほど纏っていた。
もうだいぶ前に小さくなってしまったのだろう服と靴を身につけたこの手を引いて、つぎはぎだらけのドレスに身を包んだ彼女は、花の香りと共にやってきた。
この香りに覚えがあった。
前の職場にも、たびたび香っていた。
香水だ。
香水の匂い。
上流階級への憧れが、庶民の中で流行っていることは知っていた。
そのために乳母需要が高まっているということ、そのために香水が売れていることも。
しかし、これほどまでとは。
「この子は預かりましょう」
私は、花の香りと共にやってきた親子にそう告げた。
香水の、むせかえるような花の香りが、私たちを包んでいた。
心臓の裏を撫でられたと思った。
目を見張っている間に、柔らかい感触はするりと離れていった。
「約束ですよ」
私をいつも見上げていた、私より五つも幼いあなたは、
いつも通りの芯の強さで、いつも通りにまっすぐこっちを見ていうものだから、不意をつかれた私は、気圧されたままに頷いてしまう。
「約束、ですからね。破ったら…」
そこで言葉を切って、初めて、あなたはこちらから目を逸らした。
あなたが不安になっているのだということは、痛いほど分かった。
特に、今回は余計に不安になっていることも。
さっきの、イレギュラーなあの突発的な行動で、痛いほど伝わった。
だから、呆けている場合ではない。
私はあなたを見つめて、しっかりと見つめて、出来るだけしっかりと固めた声で返す。
「分かってる。私がこれまで約束を破ったことはないだろう?」
あなたは泣き笑いの顔で、こちらを見た。
「分かってます。早めに帰ってきてください」
いつもやる、出撃前のやりとり。
私たちは言い交わす。「分かってる」
互いを信頼している証として。互いが大丈夫だと信じている証として。
本当は、きっとお互いに分かっていない。
ずっと私を待つ、あなたの心のざわめきのその大きさを、その苦しさを私は分かってあげられない。
同じように、今回の作戦内容や状況を聞いて私の中で起こった心のざわめきも、きっとあなたには伝わらない。
伝えられない。
本当は留守番部隊の方が不安なんだといういらだちも、助けてあげられないかもしれないというささくれも、今度こそ私が帰ってこれないかもしれないといううすもやも。
そんな心のざわめきは、お互いに分からないし、共有はしない。
だって、心のざわめきを、お互いに発表しあったところで、そのざわめきが一際大きくなるだけ。
さざなみのようなざわめきは、合わさることで大きく波打つのだから。
私たちは心のざわめきを飲み込んだまま、言い交わす。
「分かってる」「大丈夫」
今日が、今回が、最後かもしれなくても。いつも通りに。
心のざわめきが取り立てて酷いものではないと信じ込むために。
本当に、大丈夫になるように。
「じゃあ、いってくる。またね」
「いってらっしゃい。またね」
私たちは、別々に歩き出す。
心のざわめきの奥で、お互いを信じながら。