薄墨

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心臓の裏を撫でられたと思った。
目を見張っている間に、柔らかい感触はするりと離れていった。

「約束ですよ」
私をいつも見上げていた、私より五つも幼いあなたは、
いつも通りの芯の強さで、いつも通りにまっすぐこっちを見ていうものだから、不意をつかれた私は、気圧されたままに頷いてしまう。

「約束、ですからね。破ったら…」
そこで言葉を切って、初めて、あなたはこちらから目を逸らした。

あなたが不安になっているのだということは、痛いほど分かった。
特に、今回は余計に不安になっていることも。
さっきの、イレギュラーなあの突発的な行動で、痛いほど伝わった。

だから、呆けている場合ではない。
私はあなたを見つめて、しっかりと見つめて、出来るだけしっかりと固めた声で返す。
「分かってる。私がこれまで約束を破ったことはないだろう?」

あなたは泣き笑いの顔で、こちらを見た。
「分かってます。早めに帰ってきてください」

いつもやる、出撃前のやりとり。
私たちは言い交わす。「分かってる」
互いを信頼している証として。互いが大丈夫だと信じている証として。

本当は、きっとお互いに分かっていない。
ずっと私を待つ、あなたの心のざわめきのその大きさを、その苦しさを私は分かってあげられない。
同じように、今回の作戦内容や状況を聞いて私の中で起こった心のざわめきも、きっとあなたには伝わらない。
伝えられない。

本当は留守番部隊の方が不安なんだといういらだちも、助けてあげられないかもしれないというささくれも、今度こそ私が帰ってこれないかもしれないといううすもやも。

そんな心のざわめきは、お互いに分からないし、共有はしない。
だって、心のざわめきを、お互いに発表しあったところで、そのざわめきが一際大きくなるだけ。
さざなみのようなざわめきは、合わさることで大きく波打つのだから。

私たちは心のざわめきを飲み込んだまま、言い交わす。
「分かってる」「大丈夫」
今日が、今回が、最後かもしれなくても。いつも通りに。
心のざわめきが取り立てて酷いものではないと信じ込むために。
本当に、大丈夫になるように。

「じゃあ、いってくる。またね」
「いってらっしゃい。またね」
私たちは、別々に歩き出す。
心のざわめきの奥で、お互いを信じながら。

3/16/2025, 3:50:39 AM