薄墨

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その子は、花の香りと共に現れた。
むせかえるような花の香りに連れられて、やってきたのだった。

ほぼ香害とも思えるほどに匂い立つ花の香りの中で、小さな靴に足を納めた君の、茶色い澄んだ目を見た時に、私は決心をしたのだった。

「…分かりました。この子を預かりましょう」
この子の目を見るまでは、預かり乳母などするつもりはなかった。
妊娠して、住み込みで家庭教師として働いていたあの家を追い出されてしまい、困っていた私を引きずるようにして、友人は、この乳母斡旋所に私を連れてきた。

家でもう一人子を預かるだけだから!
登録だけ!登録だけしておこう?
収入源が何もないのは困るでしょ?

何度も宥めすかしながら、友人はしかし、最終的には渋る私を斡旋所に登録せしめた。
登録だけだよ、
私にそう言わしめた。

そして今日、果たして仕事の依頼がやってきたのだった。

断るつもりだった。
冷静に考えたら、いや考えなくとも、二人も子どもを育てる自信なんてなかった。
ましてや人様のお子なんて!
今回の依頼の報酬は素晴らしく良かったが、一方で預かり期限は無期限…つまり、口減しとしての預けだと暗に書かれていた。
だから不安だった。
他人の子の一生をもう一人分背負う自信はなかった。

いくら母親を雇う先は少ないとしたって、探せば針子や、畑の手伝いなどの日雇い仕事だってあるだろうし、最悪、水商売という手もなくはない。
だから、断るつもりだったのだ。

しかし、花の香りと共に現れた子の、あの目を見て、私は引き取ることを決めたのだ。

その依頼主は、前情報からして、さして裕福ではないはずだった。
上流階級の者ではなく、労働者階級の庶民で、そういう身分に対しての待遇は、分離政策で治められているこの地ではかなり良くなかった。
税もそれなりに重いし、食費を集めるだけでも大変だ。

そんな家にも関わらず、あの子を連れてきた母親は、花の香りをこれまでかというほど纏っていた。
もうだいぶ前に小さくなってしまったのだろう服と靴を身につけたこの手を引いて、つぎはぎだらけのドレスに身を包んだ彼女は、花の香りと共にやってきた。
この香りに覚えがあった。
前の職場にも、たびたび香っていた。

香水だ。
香水の匂い。

上流階級への憧れが、庶民の中で流行っていることは知っていた。
そのために乳母需要が高まっているということ、そのために香水が売れていることも。

しかし、これほどまでとは。

「この子は預かりましょう」
私は、花の香りと共にやってきた親子にそう告げた。
香水の、むせかえるような花の香りが、私たちを包んでいた。

3/16/2025, 10:56:23 PM