腰につけていた鞘から、すらりと抜き放った。
刀身は、冴え冴えと冷ややかに輝いている。
恐ろしいほど静かだ。
目を閉じて耳をそばだてれば、静けさの中のざわめきにも敏感になる。
風の音。木の葉の音。遠くの川の音。
瞼の裏の闇と、あたりの静けさに慣れれば、鼓膜はどんな些細な空気の振動も、漏らさずに捉え始める。
茂みの中の野生動物たちの気配も、眼前の敵陣の動きすらも。
腕や足に気力が満ちていくのを感じる。
四肢や体の表面には込み上げてくる篭った熱いものが巡っていくのに、体の芯の部分…脳や心はあの刀身の輝きのように重く、鎮まっていく。
耳をそばだてる。
やがて、体の内からか外からかも分からない声が、脳に響く。
君の声だ。
君の声がする。
「斬れ」
その声は呟く。
有無を言わさぬ断固たる口調で、その声は私に言う。
「好機だ。斬れ。今、刀を振るえば、私たちは戦える。血を流し、血を見られる」
柄がきりりと鳴る。
知らぬ間に、刀の柄を手の中に強く握り込んだようだ。
「そのとおり」
私は君の声に、呟くように応える。
「そのとおり。今が好機」
君の声が、時折脳に響くようになったのは、遠い噂で、侵略者を押し返す戦争が始まると言われるようになってからだ。
あの噂を初めて聞いたあの日から、君の声が聞こえるようになった。
正体知れずのその声は、いつも的確に、私の望む方へ、私を導いた。
農夫との婚礼を間近に控えた、田舎の小娘だった私が、最前線で兵の命を預けられながら刀を振るう一将軍となったのも、この声による導きが的確だったからだ。
初めて人を斬った日のことは覚えている。
生き物として生き生きと脈打っていた骨肉を斬り捨てたあの手応え。
振り抜いた刀の軌跡の後から流れ出す赤い血と、ずるりと落ちて残った肉塊。
あの日の言い表せないような感触と興奮が、今も私の骨髄に染み込んでいる。
私は戦いを欲していた。
刀を振い、命を賭して命を狩ることを欲していた。
私の罪深い心の奥底は、感情は、殺しを望んでいた。
そして君の声は、それをよく知っていた。
私は君の声に導かれてここまできた。
ある人はそれを使命と言った。
ある人はそれを幻覚と言った。
ある人はそれを哀れな運命だと言った。
でも私は知っている。
私は、私の意思でここまで来た。
「行こう。斬れ」
君の声がする。
足に、腕に、力が籠る。
肉を斬る、骨を断つ感触が、込み上げてくる。
私は身を翻す。
君の声がする。
敵陣に向かって、一気に駆け抜ける。
君の高笑いが聞こえた気がした。
むかしむかし、大昔。
人類という動物が現れ始めた頃。
人という動物の種類が、まだ二十も三十もいた、人類の黎明期のことでした。
猿から枝分かれして発生した、二本足で歩ける人類という種族は、他の種族よりもずっと栄えていました。
そんな人類には、さまざまな種がいました。
手先が細く関節が柔らかくて、器用にたくさんの道具を作る人類。
指の形が独特で、火を素早く上手に起こせる人類。
素早い身のこなしで体力があり、狩りが上手い人類。
人類の共通の発明、言葉を使いこなし、群れでの行動に適した人類。
脳が重く知能の高い、賢く効率の良い暮らしを営む人類。
がっしりとした体躯と筋肉量を持ち、縄張り争いに悉く強い人類。
好奇心が強く、冒険を重ねて、人類の分布範囲をどんどん広げていく人類。
数多の人類は、それぞれ強みを持ち、それぞれの繁栄を享受していました。
ところが、こうして栄え、たくさんいる人類の中に、とりわけ中途半端な人類がいました。
それは、後の世に、ホモ・サピエンスと呼ばれる人類たちでした。
彼らの体躯は大きくも小さくもなく、人類の中でとりわけ頭が良いというわけでもありませんでした。
言葉は同種のものしか使えませんでしたし、人類の中でも不器用で、保守的でした。
ホモ・サピエンスたちは、人類の中でもとりわけ細々と暮らしていました。
そんな中途半端な人類に、ある時、一人の変わり者の個体が生まれました。
その個体は、理に合わない変な個体でした。
その個体は、生存のために食べ物を集めたり、狩りをしたりしません。
また、人類らしく言葉を発することもありません。
ただ、不可解な行動ばかりをするのです。
食べ物を貯めるための容器に、ただひたすら、小石を詰め込んでいたり。
水と毒草を火にかけてかき回したり。
腐った肉を拾い上げて、骨と粘土と煌めく石を埋め込んでみたり。
或いは、太陽を眺めていたり。
植物をむしってみたり。
そんな意味のないことばかりしているのに、その個体はしぶとく生き続けていました。
同種のホモ・サピエンスも、それ以外の人類もみな、一言も喋らない、生きる意思のないこの個体を、稀に出てくる失敗個体だと認識し、やがて誰も彼もが「マヌケ」と呼ぶようになりました。
しかし、マヌケは、人類から孤立しても、ひたすらそんな行動を続けて、しぶとく生き残り続けていました。
ある日のことです。
ホモ・サピエンスのうちの一人が、小川の淵に佇むマヌケを発見しました。
マヌケは体を丸めて、何かを煮ているようでした。
この頃、マヌケが生物らしく食べ物を食っているところを誰も見たことがありませんでしたから、発見した人は、マヌケに興味を持ちました。
マヌケが何を食べているか知れるかも。
そう思った人は、マヌケに近づいて行きました。
マヌケは、太陽を仰いでから、何やら土器に手を突っ込むと、何かを掬い出しました。
それは、マヌケの薄汚れた手の隙間から、透明に流れ落ち、なんの変哲もない水のようでした。
マヌケはそれを太陽に、空に掲げると、朗々と、やけに美しい響きで、初めて言葉を発しました。
「ありがとう」
その頃、人類に感謝という言葉はありませんでした。
ありがとうという言葉もありませんでした。
なぜなら、種が繁栄するために同種で助け合うのは当たり前でしたし、自然や環境に対しては、むしろ進化によって適応してきたのが生物でしたので、有り難がる、という概念などなかったのです。
しかし、マヌケは目を細めて、太陽と水に初めて「ありがとう」と言ったのです。
明るく強く輝き、暖かみと光をもたらす太陽の光と、キラキラと流れる水の滑らかさを煮詰めたマヌケは、その中から「ありがとう」という感謝を作り上げ、掬い出したのでした。
マヌケは、自然と自分の作り出した「ありがとう」の出来栄えにすっかり満足していましたが、それを側から見ていた人は感銘に打たれました。
マヌケと、それを見たホモ・サピエンスは、なんだかよく分からない、自然や生きることに対して、込み上げる温かさと恐ろしさを感じたのです。
それは「畏怖」でした。
それは「感謝」でした。
そしてそれは「神」でした。
マヌケを見ていたホモ・サピエンスは、弾けるように飛び出して叫びました。
「ありがとう」
マヌケはその人を振り返り、叫びました。
「ありがとう」
「ありがとう」は、ホモ・サピエンスの中にあっという間に広がりました。
他の人類たちは、この発明を蔑みました。
他の人類たちの遺伝子と本能と理性は、「ありがとう」を軽んじていました。
「中途半端で今まで他の人類の発明を盗むようにして生き抜いてきたホモ・サピエンスという人類の発明など、大したことはない」と、判断したのでした。
しかし、ホモ・サピエンスの中では、「ありがとう」は熱狂的な支持を持って受け入れられ、あっという間に浸透しました。
ホモ・サピエンスは「ありがとう」を知り、その概念から「感謝」と「畏怖」の概念を見出しました。
そして、「ありがとう」それの元では、ホモ・サピエンスは、結束を固め、「信仰」「信念」「想像」という、これまでどの人類が発明したものよりも、ずっと強固で激しい感情を、絆を、発明しました。
「感謝」に「正義」、「畏怖」に「悪」を当てはめると、その激しい共通感情はますます強固になりました。
ありがとう、ありがとう。
やがて、ホモ・サピエンスは、その言葉を交わしながら、どんどん力強く、どんどん豊かに発展していきました。
その強い結束と頑固な力の正体に、他のどの人類も、当事者のホモ・サピエンスたちでさえ、気づくことはできませんでした。
やがて、ありがとう、その言葉は凶器となり、狂気となって、ホモ・サピエンスに栄光を導きました。
そして、他の人類を淘汰しました。
今では、この星、この世界には、人類と分類される生物はたった一種しか生き残っていません。
ありがとう、その言葉を発明した、あのマヌケの種族である一種類しか…。
悪意はそっと伝えたい。
胸の辺りに溜まった、ふつふつと煮えるあれやこれやをそっと押さえ込みながら、鉛筆を持つ。
ピシリと四隅まで真っ白な紙を、眺めながら考える。
30分も遅刻したあの人に相応しい言葉はなんだろう。
「時計も読めないのか」では不十分。
もっと、洒落てて、強烈で、それでいて、あんな奴には分からないくらい高尚な、皮肉を。
紙に軽く線を引いてみて、考える。
責任を放棄することばかり考えて、イベントの企画も、遊びの企画も、雑事すらしてくれない、どうしようもない逃げ腰のアイツは、なんで呼ぶべきだろう。
「甘い蜜を吸いやがって」じゃ、この苛立ちの全ては言い表せていない気がする。
白い紙にとりあえず、苛立ちの原因を、自分の感情を、思いつくままに書きつけてみる。
殴り書きのお世辞とも丁寧とはいえない、自分の字が並ぶ。
この煮詰まった悪意を丁寧にほどいて、美しく形を整えて、そっと伝える悪意にする。
ユーモアと悪意に溢れた言葉を紡ぐ。
そのうちにきっと、この苛立ちもやるせなさも、落ち着いてくる。
自分に悪感情しか呼び起こさなかったこの胸の沸々も、大切にできるようになるだろう。
私は紙を眺めて、頭の中で言葉をこねくり回す。
苛立ちに染まった自分の言葉が、背中を押してくれる。
日常で感じた嫌悪や苛立ちから生じた悪意を、丁寧に、そっと伝えようとし始めてから、一年が経つ。
この一年で、ずいぶん怒鳴ることが減った。
悪意をそっと伝えるために、自分の感じた悪意や苛立ちを、ゆっくりと分析し、脳内でこねくり回す。
その間に、怒りはぬるま湯くらいの勢いしかなくなる。
そうすれば、勢いで怒鳴ることもない。
口答えによる言い争いで、元気とやる気を削がれることもない。
体力は温存できるし、語彙も増える。
なにより、奴らを奴らには分からないくらいの言葉でこき下ろすのは、とても爽快だ。
罵倒ではない罵倒なら、同じ土俵に下りるまでもなく、こき下ろせるのだから。
だから私は、悪意はそっと伝えたい。
自分の苛立ちを、完全なる勝利という形で発散するために。
奴らのために体力を使わないために。
自分の語彙を磨くために。
自分の苛立ちを、感じ方を大切にするために。
私は今日も、悪意を丁寧に、そっと伝える。
遅刻魔のアイツは、「重役出勤」を弄ってみようか。
自分勝手な逃げ腰のアイツは、ゲームの世界でなら、戦闘回避用のアイテムをカンストまで買い込んでいるのかも。
なんだか楽しくなってくる。
鼻歌を歌いながら、検索を立ち上げる。
私は、悪意こそ、そっと丁寧に伝えたい。
目を開ける。
こんもりと温かい布団の間で身じろぎする。
布団の外はまだ暗く、寒い。
枕元の寒い空間に手を引き延ばし、デジタル時計を引き寄せる。
文字盤には白い文字で、4:26と表示されている。
うん、まだ寝れる。あと二時間くらいは
そう判断して、デジタル時計を枕の下に放り出す。
それから再び布団の中に潜り込む。
頭につけられたチューブの先端の、金具がかちゃん、と音を立てた。
この世には、忍者も武士も巫女もいまだに存在している。
この真実を、一般人は一笑にふすが、既得権益を持つお偉方は当然のように活用している。
国益のため、自分の利益のため、会社や平和の維持のため、ただ単なる慈善活動のため…
占星術や予知夢で、未来を予知する巫女は、国にも社長にもちゃんと存在する。
でも、予知夢を見る巫女は、予知夢を制御はできない。
巫女の血を継ぐ巫女は、ある歳に予知夢を見始めたら、その後一生、夢を見るたびに予知夢を見る。
しかし、その全てが使えるわけではない。
自分の未来の何気ない1日の夢を見たり、災害や戦争後の手がかりも救いも残っていない夢を見たり、“使えない”未来にチャンネルがあってしまうことも、よくあるからだ。
だから、巫女は大抵、大人数で暮らす。
その団体の中で一番、経験と実力が豊富な年配の巫女が、おばば様、となって、見た予知夢や占星術の結果をまとめるのだ。
私が予知夢を見たのは、八歳の時。
巫女候補の子供たちが集められる、乙女舎で、起きたあの寒い、結露が窓にびっしりと真っ白についた冬の日。
国益を守るために集められた巫女の寝台の、その一つの、白い布団にくるまって、目を開ける夢。
ふかふかの羽毛布団に潜り込み、二度寝をする夢だ。
私は目を開ける。
見慣れた天井。
毛布がくしゃりと歪む。
今まで好きだったキャラクターが、毛布の上で笑っている。
時計の文字盤は、7時を指している。
おばば様が、みんなを起こす声が聞こえている。
私は未来の記憶を辿る。
そう、今日だ。
白いふかふかの羽毛布団に潜り込む未来。
デジタル時計で4:26を確認する未来。
私は未来の記憶を辿る。
そう、今日なのだ。
八歳二ヶ月の今日なのだ。
未来の記憶を辿る。
もうじき、おばば様がやってくる。
そして、しわくちゃな優しい笑みで私に言うのだ。
「おめでとう。昨晩、予知夢を見たんだね」
それから私は、国益のために、白い羽毛布団の寝室をもらうのだ。
私は体を起こす。
おばば様を迎えるために。
部屋の窓には、結露が真っ白についていた。
「こんなクソみたいな店に、本当にするつもりなわけ」
看板に貼り付けられた赤いゴシック体の「ココロ屋 本店」に吐き捨てる。
いくら退屈で、感情過剰になりやすい現代といえど、人の過剰なココロや感情を瓶詰めして売り払うなんて、誰が考え出したのだろう。
そんな商売に関わる人の気がしれない。
「仕方ないだろ。そういうモンなんだから」
煮沸消毒した瓶を並べながら、彼が言う。
その大人びた、達観した落ち着いたような物言いに、反発感がむくむくと湧き起こる。
「だって、今まで私たちに自由に許されてたのは、心と思考くらいだったのに、それすら作り物として、可視化されるのよ。私たちの元々の設定は?本当の心は?…どこへ行くっていうの?」
私の言葉を、彼は口元に薄い笑いを浮かべながら、嘆息の混じった声で嗜めた。
「そうは言っても、作者様の意向は絶対だ。俺たちにはな。進まない時の中に取り残されるよりは、作り物のココロを押し付けられる方がマシだ。諦めるんだ。…原作者はもう、いないんだから」
顔を顰めて呟くように絞り出した、最後の言葉と表情に、彼の苦悩とその悲劇にに浸っている彼の意向が透けて見えた。
私たちが初めて作られた時、私たちの関係性は複雑だった。
恋が分からないマイノリティを抱えた作者が、理解されない自分の心を、感覚を叩きつけるようにして描いたその作品の中で、私たちの関係性は、私たちの性格は、生み出された。
私たちは、先輩後輩の関係で、生意気で跳ねっ返りの強い私と、面倒くさがりのくせに面倒見のいい彼。
私と彼は決して恋仲ではなく、友人でもなく、ただただ、私と彼、という関係だった。
私たちはお互いを好きか嫌いかも曖昧で複雑で、何を話すにも何を語るにも、一言では言い表せなかった。
初めて私たちを創り出した原作者が亡くなるまでは。
原作者が自殺して、私たちの版権は宙に放り出された。
私たちは悠久の、止まってしまった時間に閉じ込められていた。
それを解放したのが、二次創作だ。
彼の作品を楽しみにしていて、自分なりの解釈を持ち、彼の世界を楽しんでいた一ファンが、私たちの時を再び進めた。
しかし、それは所詮ファンだった。
歪められたファン解釈の中で、私たちは恋仲だった。
私たちの時は進み始めた。
私たちに原作者が望んだのとは違う設定、違う関係で。
そして、彼は、原作者が生前、一番自分を重ねた登場人物だった。
彼は原作者の一番良い理解者。
だからこそ、原作者の死を知って一番取り乱し、悲劇のヒロインの如く、悲壮に明け暮れた。
だからだろう。彼の視線を避けるように俯いて、私は、彼に追い打ちをかけるように、恨みがましく本音を溢してしまう。
「私だって、あなたへの想いを、こんなに複雑で大事な感情を、“コイゴコロ”なんかに単純化されたくなかった」
顔を上げると、彼は見たことのないような優しい、哀しい、複雑な表情を浮かべて、私を見ていた。
それは初めて見る顔で、私はちょっと怯んでしまう。
面食らった私の頭に、優しく彼の手が乗った。
温かくて大きい、ガサガサの手だった。
いつもなら避けたくなるその掌を、私は避けられなかった。
彼の今の表情には、それを許さないような切実さが滲み出ていた。
「……そうだよな」
頭に乗った手が何度か私の頭を往復し、頬に降りる。
そんな長い時間をかけて、でも結局、彼が絞り出したのは、一言だけだった。
「そうです」
私が絞り出せた言葉もまた、一言だけだった。
私の声を聞いて、彼は弾かれたように、私から離れた。
それから顔を上げた彼の顔は、いつもの表情に戻っている。
「たとえこれからの俺たちの感情描写が、作り物の“ココロ”なんかだとしても、作者様の意向だ。大事にしないとな。…さ、ココロ屋の準備をするぞ」
何事もないように喋る彼に、私は何も言い返せなかった。