薄墨

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「こんなクソみたいな店に、本当にするつもりなわけ」
看板に貼り付けられた赤いゴシック体の「ココロ屋 本店」に吐き捨てる。

いくら退屈で、感情過剰になりやすい現代といえど、人の過剰なココロや感情を瓶詰めして売り払うなんて、誰が考え出したのだろう。
そんな商売に関わる人の気がしれない。

「仕方ないだろ。そういうモンなんだから」
煮沸消毒した瓶を並べながら、彼が言う。
その大人びた、達観した落ち着いたような物言いに、反発感がむくむくと湧き起こる。

「だって、今まで私たちに自由に許されてたのは、心と思考くらいだったのに、それすら作り物として、可視化されるのよ。私たちの元々の設定は?本当の心は?…どこへ行くっていうの?」
私の言葉を、彼は口元に薄い笑いを浮かべながら、嘆息の混じった声で嗜めた。

「そうは言っても、作者様の意向は絶対だ。俺たちにはな。進まない時の中に取り残されるよりは、作り物のココロを押し付けられる方がマシだ。諦めるんだ。…原作者はもう、いないんだから」
顔を顰めて呟くように絞り出した、最後の言葉と表情に、彼の苦悩とその悲劇にに浸っている彼の意向が透けて見えた。

私たちが初めて作られた時、私たちの関係性は複雑だった。
恋が分からないマイノリティを抱えた作者が、理解されない自分の心を、感覚を叩きつけるようにして描いたその作品の中で、私たちの関係性は、私たちの性格は、生み出された。
私たちは、先輩後輩の関係で、生意気で跳ねっ返りの強い私と、面倒くさがりのくせに面倒見のいい彼。

私と彼は決して恋仲ではなく、友人でもなく、ただただ、私と彼、という関係だった。
私たちはお互いを好きか嫌いかも曖昧で複雑で、何を話すにも何を語るにも、一言では言い表せなかった。

初めて私たちを創り出した原作者が亡くなるまでは。

原作者が自殺して、私たちの版権は宙に放り出された。
私たちは悠久の、止まってしまった時間に閉じ込められていた。

それを解放したのが、二次創作だ。
彼の作品を楽しみにしていて、自分なりの解釈を持ち、彼の世界を楽しんでいた一ファンが、私たちの時を再び進めた。

しかし、それは所詮ファンだった。
歪められたファン解釈の中で、私たちは恋仲だった。

私たちの時は進み始めた。
私たちに原作者が望んだのとは違う設定、違う関係で。

そして、彼は、原作者が生前、一番自分を重ねた登場人物だった。
彼は原作者の一番良い理解者。
だからこそ、原作者の死を知って一番取り乱し、悲劇のヒロインの如く、悲壮に明け暮れた。

だからだろう。彼の視線を避けるように俯いて、私は、彼に追い打ちをかけるように、恨みがましく本音を溢してしまう。
「私だって、あなたへの想いを、こんなに複雑で大事な感情を、“コイゴコロ”なんかに単純化されたくなかった」

顔を上げると、彼は見たことのないような優しい、哀しい、複雑な表情を浮かべて、私を見ていた。
それは初めて見る顔で、私はちょっと怯んでしまう。

面食らった私の頭に、優しく彼の手が乗った。
温かくて大きい、ガサガサの手だった。
いつもなら避けたくなるその掌を、私は避けられなかった。
彼の今の表情には、それを許さないような切実さが滲み出ていた。

「……そうだよな」
頭に乗った手が何度か私の頭を往復し、頬に降りる。
そんな長い時間をかけて、でも結局、彼が絞り出したのは、一言だけだった。

「そうです」
私が絞り出せた言葉もまた、一言だけだった。

私の声を聞いて、彼は弾かれたように、私から離れた。

それから顔を上げた彼の顔は、いつもの表情に戻っている。
「たとえこれからの俺たちの感情描写が、作り物の“ココロ”なんかだとしても、作者様の意向だ。大事にしないとな。…さ、ココロ屋の準備をするぞ」

何事もないように喋る彼に、私は何も言い返せなかった。

2/11/2025, 10:57:17 PM