薄墨

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むかしむかし、大昔。
人類という動物が現れ始めた頃。
人という動物の種類が、まだ二十も三十もいた、人類の黎明期のことでした。

猿から枝分かれして発生した、二本足で歩ける人類という種族は、他の種族よりもずっと栄えていました。
そんな人類には、さまざまな種がいました。

手先が細く関節が柔らかくて、器用にたくさんの道具を作る人類。
指の形が独特で、火を素早く上手に起こせる人類。
素早い身のこなしで体力があり、狩りが上手い人類。
人類の共通の発明、言葉を使いこなし、群れでの行動に適した人類。
脳が重く知能の高い、賢く効率の良い暮らしを営む人類。
がっしりとした体躯と筋肉量を持ち、縄張り争いに悉く強い人類。
好奇心が強く、冒険を重ねて、人類の分布範囲をどんどん広げていく人類。
数多の人類は、それぞれ強みを持ち、それぞれの繁栄を享受していました。

ところが、こうして栄え、たくさんいる人類の中に、とりわけ中途半端な人類がいました。
それは、後の世に、ホモ・サピエンスと呼ばれる人類たちでした。

彼らの体躯は大きくも小さくもなく、人類の中でとりわけ頭が良いというわけでもありませんでした。
言葉は同種のものしか使えませんでしたし、人類の中でも不器用で、保守的でした。
ホモ・サピエンスたちは、人類の中でもとりわけ細々と暮らしていました。

そんな中途半端な人類に、ある時、一人の変わり者の個体が生まれました。
その個体は、理に合わない変な個体でした。

その個体は、生存のために食べ物を集めたり、狩りをしたりしません。
また、人類らしく言葉を発することもありません。
ただ、不可解な行動ばかりをするのです。

食べ物を貯めるための容器に、ただひたすら、小石を詰め込んでいたり。
水と毒草を火にかけてかき回したり。
腐った肉を拾い上げて、骨と粘土と煌めく石を埋め込んでみたり。
或いは、太陽を眺めていたり。
植物をむしってみたり。

そんな意味のないことばかりしているのに、その個体はしぶとく生き続けていました。
同種のホモ・サピエンスも、それ以外の人類もみな、一言も喋らない、生きる意思のないこの個体を、稀に出てくる失敗個体だと認識し、やがて誰も彼もが「マヌケ」と呼ぶようになりました。

しかし、マヌケは、人類から孤立しても、ひたすらそんな行動を続けて、しぶとく生き残り続けていました。

ある日のことです。
ホモ・サピエンスのうちの一人が、小川の淵に佇むマヌケを発見しました。
マヌケは体を丸めて、何かを煮ているようでした。
この頃、マヌケが生物らしく食べ物を食っているところを誰も見たことがありませんでしたから、発見した人は、マヌケに興味を持ちました。

マヌケが何を食べているか知れるかも。
そう思った人は、マヌケに近づいて行きました。

マヌケは、太陽を仰いでから、何やら土器に手を突っ込むと、何かを掬い出しました。
それは、マヌケの薄汚れた手の隙間から、透明に流れ落ち、なんの変哲もない水のようでした。

マヌケはそれを太陽に、空に掲げると、朗々と、やけに美しい響きで、初めて言葉を発しました。
「ありがとう」

その頃、人類に感謝という言葉はありませんでした。
ありがとうという言葉もありませんでした。
なぜなら、種が繁栄するために同種で助け合うのは当たり前でしたし、自然や環境に対しては、むしろ進化によって適応してきたのが生物でしたので、有り難がる、という概念などなかったのです。

しかし、マヌケは目を細めて、太陽と水に初めて「ありがとう」と言ったのです。
明るく強く輝き、暖かみと光をもたらす太陽の光と、キラキラと流れる水の滑らかさを煮詰めたマヌケは、その中から「ありがとう」という感謝を作り上げ、掬い出したのでした。

マヌケは、自然と自分の作り出した「ありがとう」の出来栄えにすっかり満足していましたが、それを側から見ていた人は感銘に打たれました。

マヌケと、それを見たホモ・サピエンスは、なんだかよく分からない、自然や生きることに対して、込み上げる温かさと恐ろしさを感じたのです。

それは「畏怖」でした。
それは「感謝」でした。
そしてそれは「神」でした。

マヌケを見ていたホモ・サピエンスは、弾けるように飛び出して叫びました。
「ありがとう」
マヌケはその人を振り返り、叫びました。
「ありがとう」

「ありがとう」は、ホモ・サピエンスの中にあっという間に広がりました。
他の人類たちは、この発明を蔑みました。
他の人類たちの遺伝子と本能と理性は、「ありがとう」を軽んじていました。
「中途半端で今まで他の人類の発明を盗むようにして生き抜いてきたホモ・サピエンスという人類の発明など、大したことはない」と、判断したのでした。

しかし、ホモ・サピエンスの中では、「ありがとう」は熱狂的な支持を持って受け入れられ、あっという間に浸透しました。

ホモ・サピエンスは「ありがとう」を知り、その概念から「感謝」と「畏怖」の概念を見出しました。
そして、「ありがとう」それの元では、ホモ・サピエンスは、結束を固め、「信仰」「信念」「想像」という、これまでどの人類が発明したものよりも、ずっと強固で激しい感情を、絆を、発明しました。

「感謝」に「正義」、「畏怖」に「悪」を当てはめると、その激しい共通感情はますます強固になりました。

ありがとう、ありがとう。
やがて、ホモ・サピエンスは、その言葉を交わしながら、どんどん力強く、どんどん豊かに発展していきました。

その強い結束と頑固な力の正体に、他のどの人類も、当事者のホモ・サピエンスたちでさえ、気づくことはできませんでした。

やがて、ありがとう、その言葉は凶器となり、狂気となって、ホモ・サピエンスに栄光を導きました。
そして、他の人類を淘汰しました。

今では、この星、この世界には、人類と分類される生物はたった一種しか生き残っていません。
ありがとう、その言葉を発明した、あのマヌケの種族である一種類しか…。

2/15/2025, 3:35:25 AM