小学校と、家から歩いていける、自宅から半径500メートルが世界の全てだった頃の話だ。
大人の言うことをよく聞き、友達もたくさんいて、でもごくごく普通のよく居る影の薄い小学生だった私が、あんなにも先生の耳目を集めたことは、夏休みの宿題の自由作文に、この作文を提出したあの時が、最初で最後だった。
小さな勇気
お父さん、お母さんはぜったいで、二ばん目にえらいのは、ぼくたちの中で一ばん大きいあの子。
ランドセルをげんかんにほうって、自てん車のカギをつかんだ。
今日も、クラスのみんなは、あの子にさそわれたから、当たり前に、公えんにいく。
みんなであそぶから。
公えんについたら、いろんなおもちゃがある。
学校よりも、家のへやよりも、ずっとらくにあそべる。
ぼくたちは、公えんにいったら、虫さんをつかまえる。
一ばん、かっこよくて、たのしいおもちゃだから。
つかまえた虫さんたちをたたかわせたり、バッタさんやちょうちょさんの足や羽をちぎったり、できかけのアリさんのすをつま先でうめたり。
つかまえた虫さんがいなくなったら、ヒーローごっこをする。
みんなで足のふみあいっこをして、一ばんよわい子をわるものにする。(だって、正ぎのヒーローはいつもかつからね。強い子がならなきゃ、お話どおりにならない)
元気のない友だちや、おとなしい女の子がとおりかかったら、みんなでからかう。
わるいとか、すきとか、きらいとか、大人たちはいつもそんなことをいうけど、ぼくたちには分からない。
ぼくたちの中では、それが当たり前で、いつものあそびだから、そうする。
だから、今日も、そうやってあそぶつもりだった。
みんなと、虫さんとあそぶんだって思った。
公園についた。
もう、なん人かの友だちは来ていて、みんな、虫さんとあそんでいた。
それはカマキリさんだった。
カマキリさんの羽はむしられていて、カマキリさんは、青みどりのかまを、うんどうかいでおどるみたいに、むちゃむちゃにうごかしていた。
みんながわらってみてた。
そのとき、ぼくは、カマキリさんと目が合った。
きゅうに、カマキリさんがかわいそうに思えた。
カマキリさんは、くるしそうに、なにもない空気をひっかいていた。
むちゃむちゃだった。
かなしそうだった。
ぼくは、つばをのみこんだ。
止めなきゃって思った。
やめて!って思った。
でも、ぼくのこえは出なかった。
だって、みんなはたのしそうだったから。
そのとき、ぼくのあたまの中で、きゅうに、道とくの時間のはなしがうかんだ。
「小さな勇気がだいじ」って、先生がいってたこと。
ぼくは、かすれた、ふるえるこえでいった。
「やめようよ。ぼくはもうやらない」
みんなはつまらなそうに、ふふくそうに、カマキリさんをにがした。
きっと、これからぼくはみんなとあそべなくなるだろう。
みんなは、まだ、カマキリさんとあそぶのがたのしそうだったから。
ぼくは、みんなとちがってしまったから。
これから、みんなは、ぼくをちょっときらいになる。
だって、ぼくたちは、そういうものだから。
でも、大人はきっとそれに気づかない。
大人はみんな、小さいころにしたいいことは、ぜんぶおぼえているのに、小さいころにしたわるいことは、みんなわすれてしまっているから。
だから、大人はみんな、赤ちゃんも、ぼくたち子どもも、かわいいっていう。
ぼくたちが虫さんとあそんでいることには、気づかない。
だから、ぼくは、ちょっとこうかいした。
でも、なんか、カマキリさんがさっていくのがうれしいのが、大人になった気分だった。
先生が読んでくれた道とくのきょうかしょの、カエルをいじめたくないのにけったあの主人公の気もちが、はじめてわかった気がした。
こんな作文を読んで、さぞ当時の担任の先生は、困惑したことだろうと思う。
あの時振り絞った“小さな勇気”は今も覚えている。
そして、その小さな勇気の果ての顛末さえも、大筋は覚えている。
あの作文を提出した次の日、昆虫採集の遊びは禁止になり、道徳の時間が増えた。
その対応は、当時の私にとっては随分と意外で、見当外れに思えたことを記憶している。
大人は、小学生の私の予想よりはずっと子どもを気にかけていて、行動的で、でも結局、当時の私が予想した通りに、子どものことを覚えていなかったのだ。
だから、私は、自分が大人になった今も、こういう自論を持ち続けている。
「大人は、自分が子どもの頃にした良い事は、はっきりと覚えているが、自分が子どもの頃にした悪い事、犯した罪は、すっかり忘れてしまうのだ」と。
濃霧の中に、青い影が見える。
高く、大きく聳え立っている。
唾を飲み込み、踏み出す。
一歩一歩、湿った白い水蒸気の中を進む。
青い影が、ゆっくりと輪郭を定め、近づいてくる。
やがて、影ははっきりと形を保つ。
白い霧の中に、青銅の色をした石畳の塔が、細く高く、ぽつりと独立している。
「わぁ…!」
思わず感嘆の声が漏れた。
塔は、静まり返った白銀の霧の中に、冴え冴えと鈍重の色を湛え、静かに佇んでいる。
荘厳に。ぴくりとも動かずに。
温かみも生命の動きも音もなく、死のようにただひっそりと、不気味に塔は聳えている。
塔をゆっくりと見上げる。
濃い霧と荘厳な空気が、重たく頭上に立ち込めていた。
その重さを押し上げるように、ゆっくりと顔を上げる。
青い塔が、高く、高く続いている。
塔の遥か上の方には、青金色の重たそうな鐘が鈍く輝いている。
恐ろしいほどの静寂の濃霧の中に、恐ろしいほど脆弱で美しい塔が聳えている。
ここだ。
目指していたのはまさにこの地だった。
そう確信した。
出し抜けに、鐘がゆっくりと空気を震わせる。
ごぉん、ごぉん
低い音が、霧を掻き分けるように、響き渡る。
白い霧が一層深さを増して、冷たい空気が、ゆっくりと広がる。
「…わぁ!」
身震いするような冷たく重苦しい霧たちに、嘆息のような声が出た。
神々しさと荘厳さに、足がすくみ、かちりかちりと歯が鳴る。
とうとう辿り着いたのだ。
畏れと共に込み上げたのは、そんな達成感と、ワクワクした得体の知れない喜びだった。
私は、神を探していた。
自分をこの絶望から救ってくれるなら、なんでも良かった。
誰も守れない、大切な人も仲間もだれ一人守れなかった、この不甲斐ない自分の実力不足を忘れさせてくれるのなら。
たとえそれが怪物でも、悪魔でも、魔物でも、人間の子悪党だったとしても。
忘却の塔。
その塔の話を耳にしたのは、今から三年も前のことだった。
人生の恐るべき転換期、信じられないほどの大事件に巻き込まれて、そして、その作戦に完膚なきまでに大失敗して、庇われて、独、生きながらえてしまった命を持て余していたあの時に、私はこの塔の噂を聞いた。
曰く、「濃霧の深い森の最奥にある、“忘却の塔”は、入ったら最期、絶望も希望も過去も名前も、何もかも記憶から消されてしまう」そういう話だった。
その噂を聞いてから、私は件の“忘却の塔”をずっと探し求めていた。
存在ごと消えてしまいたかった。
私は逝きそびれた。
そして、私は仲間の元にいく資格なんてない。
忘却の塔が見つかれば、すぐにでも頂上に登り詰めて、存在ごとなくなってしまいたかった。
何者でもないただの人間になりたかった。
だから、私はここに来た。
目の前の景色は、陰気で荘厳で、無機質で、美しかった。
鐘の音も。壁の色も。濃い霧も。
心に不安と畏れと、それから妙な希望が胸に迫ってくる。
「わぁ!」
思わず、声が漏れる。
それだけに、小さい時に拾い集めた宝物のように、美しく見えた。
ずっと眺めていたいくらいだった。
触れてはいけない気さえした。
しかし、私は、消えてしまいたい。
その気持ちは、今も私の理性を支配していた。
だから、私は一歩踏み出した。
陰気で、畏ろしいその塔に。
本能は、強く後ろ髪を引いた。
感動は、強く袖を引いた。
感情は、強く足を止めた。
しかし、私の理性は、それらを許容することはできなかった。
私は足を引き摺り、体を引きずって、歩き始めた。
霧はみるみる深くなり、進むたびに、辺りの空気は冷え始めた。
でも、自分と記憶以外の全てを失った私の足は止められなかった。
冷たくなった白い霧の中で、白い息を吐いた。
「わぁ!わぁ…」
白い息はまだ感嘆を含んでいた。
子どものような無邪気な憧憬と畏れを含んでいた。
しかし、灰色の大人の私は、足を止めなかった。
私は一歩、一歩、足早に進む。
霧はどんどん濃くなる。
青い塔の輪郭も、自分の輪郭さえも曖昧になる。
「わぁ!」
口から息が漏れる。
寒さが身に染みる。
死の、消去の冷たい気配がじわじわと迫ってくる。
青い塔の、頑丈な青銅の扉が、ゆっくり、ゆっくりと近づく。
白い霧が、また増した。
キジバトの鳴き声が聞こえる。
茂みの中で。
鳩が鳴いている。
冬の澄んだ朝。
広場の中央には、金メッキも宝石も剥がされた王子の像の残骸が、錆びついてでこぼこに凹んだ茶色い金属製の肌を晒して突っ立っている。
おそらく、この街の貧民層が剥がしていったのだろう。
見窄らしい像の現状を嘲るように、王子像の足元には、燕がひっくり返って死んでいた。
キジバトが鳴いている。
今日も街は賑やかで、王子像や燕の死骸に注意を向けるものはいない。
貴族も平民も乞食も、みな忙しそうに通り過ぎていく。
昨日は寒さがひどかった。
その証拠に、街の道端のあちこちに、溶けかけた雪がこびりついている。
この調子なら、今日も大通りの外れの路地には、行き倒れている命があるだろう。
一昨日の朝は、貧しいマッチ売りの娘が死んでいた。
今日も誰か、倒れているだろう。
ひんやりした空気に手を擦り合わせて、掃除用具を取り出す。
石畳の地面を一掃きして、息を吐く。
一掃きして、また息を吐く。
今日も、街の街に繰り出して、掃除をする。
それが私の仕事だから。
この街は、永遠と平和の街、と呼ばれている。
高い壁が、この街を取り囲んでいて、それが永遠と平和の街と呼ばれる謂れだ。
この高い壁は、広場の像のモデルとなった王子が作り出したものだ。
この王子は生まれつき魔術の力を持っており、この街をより素晴らしく、より安全な街にするために、この街の住人の幸せを想いながら、高い壁を建てて、街に二つの魔術をかけた。
一つ目の魔術は、平和の魔術。
外からくる天災や災害を遠ざける魔術だ。
だから、高い壁の内側にあるこの街には、戦争も災害も疫病もない。
絶滅もない。
飢饉さえない。
壁の内側のこの街は、恐ろしいほど平穏だ。
二つ目の魔術は、永遠の魔術。
この街が永遠に繁栄する魔術だ。
この街では、人口が減ったり、家や店が減ったりすることはない。
子どもが死ねば、新しく子どもが産まれる。
大人が死ねば、同い年くらいの放浪者がやってくる。
乞食が死ねば、乞食が現れ、貴族が死ねば、貴族がやってくる。
子どもも、大人も、動物も、鳥も、王族さえも。
この街の命は、みんな代えが効く。
それがこの街。永遠と平和の街。
王子が自分の命と引き換えに、この街に捧げた魔術は、今もひたすらに続いている。
そんな名君の王子を讃えて、街の中央広場には、金と宝石で彩られた、王子の像が置かれた。
それから200年。
この街は、あの頃から何も変わらずに、永遠に続いている。
周りの数々の国や街が終わりを経験し、滅び、勃興し、新しくなる。
この街の周辺では、数々の物語が終わり、新しい、前よりももっと進化した物語が紡がれてきた。
しかし、この街だけは終わらない。
王子が作った、王子の時の物語が続いている。
たった一人の、名君と呼ばれた愚かな王子の、終わらない物語が。
私が死んだとしても、きっと私の代わりに掃除屋がやってくる。
同じように考え、同じように生きて、同じように死んでいく、そんなたわいもない掃除屋が、私の代わりに道路を掃除する。
この街の街角で誰が死んでいようと、その代わりがやってくる。
この街は時代に取り残されながら、永遠と続く。
同じ物語を、役者を変えて、繰り返し、繰り返し紡ぎながら。
終わらない物語を、何度も何度も繰り返しながら。
私たちの物語は終わらない。
今日も200年前から終わらない青い空の下で、200年前から終わらない物語が、一本調子で続いていく。
キジバトが鳴いている。
錆びついた王子の像が、高い壁を見つめている。
私は今日も、終わらない掃除に手を出す。
私の一掃きが、今日も永遠に続く。
嘘をついた。
「大丈夫。生物や動物や人っていうものはみんな、心の底では、本当は優しくて、困っている人を助けてくれるものなんだ。だから、怖がらなくていい。自分を嫌いにならなくていい」
嘘をついた。
「夜中にうるさくすると、それを聞きつけた人喰い蛇がやってくるんだ。奴は、夜の闇の中をずっと動き回ってる。油断しない人間の大人が天敵だから、大抵は強そうな大人を見ると逃げ出すんだが、子どもは見つかった途端に、一呑みにされてしまう。だから、夜は静かにお家にいるんだよ」
嘘をついた。
「その日が来れば、サンタクロースが世界中の子どもたちにプレゼントや奇跡を届けてくれるのさ。あわてんぼうなのも、のんびりやなのも、うっかりなのもいるけど、きっとサンタクロースは、いつも君たちの味方で、君たちの良いところをたくさん知ってるはずさ。そうじゃなきゃ、サンタクロースの職務怠慢だよ」
嘘をついた。
「一人で公園のトイレに行ってはダメだよ。ああいう、誰もが自由に入れる物陰には、怪物がいるんだ。可哀想に怪物は、一人でやってきた子どもは襲え、という命令を、悪い奴らから脳に刻み込まれているんだ。だから、子どもを襲わずにはいられない。一人で人のいない狭いところには行ってはダメだよ」
嘘をついた。
「すれ違ったり、出会ったりする人の中には、悪い考えや怖い思い出の幽霊に取り憑かれて、人を傷つけてしまう人がいる。そんな人たちを助けるには、いろんな力がいるんだ。もし、そんな人に傷つけられたら、逃げるのが一番良い。そして、他の人にその人のことを伝えようね。…そんな人を救いたいと思うなら、一人じゃダメだ。他の人にも手伝ってもらわないといけないものだよ。そういう幽霊は、本当に強いから」
嘘をついた。
「食べ物を食べた後は、歯を磨こう。でないと、歯がドロドロに溶けてしまうからね」
嘘をついた。
「大丈夫。おねしょくらい誰だってするさ。子どもでも、大人でも。実はここだけの話、ただ大人は、おねしょを隠すのが上手いだけなんだよ」
嘘をついた。
「こっちのことは心配しなくていいよ。君たちはそれぞれ、君たちのための人生を歩みなさい。大人はみんな、好きで君たちに構ってるんだから」
嘘をついた。
「すごいね!大人でもなかなかそんなことは出来ないよ!」
嘘をついた。
「何日も何ヶ月も何もしないでいると、人の体には、じわじわ毒が効いてくるんだ。毒が回ると、動くのが億劫になったり、頭がうまく回らなくなったりする。だからたまには、忙しい日も作らなきゃね」
たくさんの嘘をついた。
屈んで、目線を合わせて。
手をそっと引いて。
走り去る背中に向かって。
たくさん、たくさん、嘘をついた。
いつかこの嘘に気づく時には、もう自分で幸せを探せるようになっていてほしいと、心を込めて。
いつか、嘘の真意に気づいてほしい、と気持ちを込めて。
かつて、自分を大切にしてくれた大人が、考え考えついてくれた、やさしい嘘の数々を思い出しながら。
前を走る君たちの背中は、随分大きくなった。
下手な私の嘘では、救われた子も、救われなかった子もいただろう。
でも、みんな、もうすぐ新たな一歩を踏み出す。
たくさんの嘘と、その中に埋め込まれた一握りの真理と、たっぷりの愛を抱えて。
私たちの嘘をやさしい嘘だと思っていなくてもいい。
理解してなくたっていい。
ただの酔狂だと思っていても。
意地悪だと思っていても。
ただ、少しだけでも、この嘘に込めた私の気持ちを、感じてくれたら。
私は、君たちの背中を見つめる。
すっかり見違えるほど大きくなった、君たちの背中を。
私は、君たちの背に、そっと手を振る。
じゃあな。さようなら。
まだ肌寒い陽だまりに、一筋の暖かい風が吹き抜けた。
虹彩には、いろんな情報が写し出される。
人種や、生まれや、育ちや、感情や、思考や。
瞳を覗きこめば、それらが全て分かってしまう。
大きな木の板に、色とりどりの瞳を持ったガラスの義眼が、それぞれに嵌め込まれている。
瞳の色で人を区別し、分類するために政府が使っている、判別器具だ。
「先生、この子はどうなりますでしょうか」
私の目の前には、生き生きと澄んだ美しい、空のように青い瞳をまん丸に見開いた、男の子が座っている。
その後ろに立つ女性は、涙を溜めた、切羽詰まった黒い瞳で、私を見つめている。
「この子は、私の親友の子なんです。両親を殺された可哀想な子なんです。…政府は、瞳の色が違えば、親子とは認めず、区分けしてしまうというじゃないですか。そんなことには…どうか……」
私は、男の子の青い瞳から目を上げる。
それから、女性の、感情を豊かに写し出している瞳は、なるべく見ないようにしてから、口を開く。
「どう致しましょう。瞳を閉ざすか、眼球を入れ替えてしまうか。どちらの処理をしても、この子の瞳の色を変えることはできます。…各々のデメリットとリスクは、先ほど説明したとおりです」
女性は生唾を飲み込み、それから絞り出した声で、こう言った。
「瞳を閉ざすほうで、お願いします」
ここは、政府の目から隠れた、違法の眼科病院。私はその眼科医だ。
今、ほとんどの医療機関は、政府によって禁止されている。
自然主義を掲げる今の政府は、どんな形であれ、人体に手を入れることを許さない。
人類を多様で自然な今のまま、彼らにとってベストな状態で保存するために、彼ら政府は、人を種類ごとに分類し、純粋な状態での保存をしようとしている。
瞳の色による人種の区別、区分けは、そういった政府の統治の一環なのだった。
そして、もうすぐこの町にも、その区分けの日が迫っていた。
私の腕にかかるとするなら、瞳の色を変えるには、二つの方法がある。
一つ目は、眼球そのものを入れ替えること。
細胞培養で作り出した、好きな瞳の色をした眼球に、目を入れ替えてしまうのだ。
これは結構な手術で、拒絶反応のリスクもある。
そして、眼球を全体ごと変えてしまうのだから、昔の、患者の自然な以前の瞳には、もう戻ることはできない。
しかし、一度成功してしまえば、政府の如何なる判別法をも突破できる。
二つ目は、瞳を閉ざすこと。
これには、遥か昔を暮らした人が、年頃の娘の姿を隠すために使っていたという、簾から着想を得て作り上げたコンタクトレンズのようなものを、瞳の前に装着して、文字通り瞳を閉ざす方法だ。
この特殊なコンタクトレンズの扉は、外からの光を内側に通すが、内側の光は外に出さない。
成功すれば、瞳の色はコンタクトレンズの色そのままに見える。
しかし、瞳の奥に秘めた感情など色々な情報を、この瞳を閉ざす簾は、全て遮断してしまう。瞳の美しさは、その簾を取り払うまで、もしかしたら一生、損なわれるのだ。
「君も、それでいいかね?」
私は、澄んだ青い瞳に問うた。
男の子は、目を見開いたまま、こっくりと確かに、頷いた。
今日の患者は、瞳を閉ざすことを選んだ。
瞳を閉じて、二人一緒にいることを。
青く美しく澄んだ少年の瞳を閉じて、瞳の色を閉じて、瞳の美しさを損ねても、二人一緒にいることを。
それがどうしようもなく、哀しく、勿体なく、そして羨ましく、私には思えた。
珍しい赤い瞳の美しさを理由に、親から捨てられ、引き離された私には。
そんな生い立ちを持ちながらも、かつての父親と同じように、瞳の美しさに魅入られた私には。
「分かりました。ではさっそく始めましょう」
私は、二人の瞳を見ないように努めながら、そう言った。
その言葉を放った途端、二人の瞳には、はっきり安堵の色が写った。
私は黙って、準備を始める。
私が今閉ざそうとしている男の子の青い瞳は、快晴の空のように美しかった。
本当に、美しかった。