薄墨

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嘘をついた。
「大丈夫。生物や動物や人っていうものはみんな、心の底では、本当は優しくて、困っている人を助けてくれるものなんだ。だから、怖がらなくていい。自分を嫌いにならなくていい」

嘘をついた。
「夜中にうるさくすると、それを聞きつけた人喰い蛇がやってくるんだ。奴は、夜の闇の中をずっと動き回ってる。油断しない人間の大人が天敵だから、大抵は強そうな大人を見ると逃げ出すんだが、子どもは見つかった途端に、一呑みにされてしまう。だから、夜は静かにお家にいるんだよ」

嘘をついた。
「その日が来れば、サンタクロースが世界中の子どもたちにプレゼントや奇跡を届けてくれるのさ。あわてんぼうなのも、のんびりやなのも、うっかりなのもいるけど、きっとサンタクロースは、いつも君たちの味方で、君たちの良いところをたくさん知ってるはずさ。そうじゃなきゃ、サンタクロースの職務怠慢だよ」

嘘をついた。
「一人で公園のトイレに行ってはダメだよ。ああいう、誰もが自由に入れる物陰には、怪物がいるんだ。可哀想に怪物は、一人でやってきた子どもは襲え、という命令を、悪い奴らから脳に刻み込まれているんだ。だから、子どもを襲わずにはいられない。一人で人のいない狭いところには行ってはダメだよ」

嘘をついた。
「すれ違ったり、出会ったりする人の中には、悪い考えや怖い思い出の幽霊に取り憑かれて、人を傷つけてしまう人がいる。そんな人たちを助けるには、いろんな力がいるんだ。もし、そんな人に傷つけられたら、逃げるのが一番良い。そして、他の人にその人のことを伝えようね。…そんな人を救いたいと思うなら、一人じゃダメだ。他の人にも手伝ってもらわないといけないものだよ。そういう幽霊は、本当に強いから」

嘘をついた。
「食べ物を食べた後は、歯を磨こう。でないと、歯がドロドロに溶けてしまうからね」

嘘をついた。
「大丈夫。おねしょくらい誰だってするさ。子どもでも、大人でも。実はここだけの話、ただ大人は、おねしょを隠すのが上手いだけなんだよ」

嘘をついた。
「こっちのことは心配しなくていいよ。君たちはそれぞれ、君たちのための人生を歩みなさい。大人はみんな、好きで君たちに構ってるんだから」

嘘をついた。
「すごいね!大人でもなかなかそんなことは出来ないよ!」

嘘をついた。
「何日も何ヶ月も何もしないでいると、人の体には、じわじわ毒が効いてくるんだ。毒が回ると、動くのが億劫になったり、頭がうまく回らなくなったりする。だからたまには、忙しい日も作らなきゃね」

たくさんの嘘をついた。
屈んで、目線を合わせて。
手をそっと引いて。
走り去る背中に向かって。

たくさん、たくさん、嘘をついた。
いつかこの嘘に気づく時には、もう自分で幸せを探せるようになっていてほしいと、心を込めて。
いつか、嘘の真意に気づいてほしい、と気持ちを込めて。

かつて、自分を大切にしてくれた大人が、考え考えついてくれた、やさしい嘘の数々を思い出しながら。

前を走る君たちの背中は、随分大きくなった。
下手な私の嘘では、救われた子も、救われなかった子もいただろう。

でも、みんな、もうすぐ新たな一歩を踏み出す。
たくさんの嘘と、その中に埋め込まれた一握りの真理と、たっぷりの愛を抱えて。

私たちの嘘をやさしい嘘だと思っていなくてもいい。
理解してなくたっていい。
ただの酔狂だと思っていても。
意地悪だと思っていても。
ただ、少しだけでも、この嘘に込めた私の気持ちを、感じてくれたら。

私は、君たちの背中を見つめる。
すっかり見違えるほど大きくなった、君たちの背中を。

私は、君たちの背に、そっと手を振る。
じゃあな。さようなら。
まだ肌寒い陽だまりに、一筋の暖かい風が吹き抜けた。

1/24/2025, 2:07:05 PM