薄墨

Open App
1/22/2025, 2:44:47 PM

「アンタが生まれた時、周りには硝煙と死の匂いが漂っていたんだよ」
取り上げた赤ん坊を拭いてやりながら、おばさまはいつもそう言う。

大抵、私はその時、人肌ほどのお湯を、桶にひたひたに張ったり、真っ白で柔らかなガーゼ布を固く絞ったり、チラと蝶番の光る小木箱の底に脱脂綿を敷いたり、細々と手を動かす。

おばさまの向こうでは、おばさまのお弟子さんの姉さんが、母親の額に浮いた汗を布で優しく拭いながら、何やら話している。

初めて自らの臓器で空気を貪って、激しく泣き喚く呼吸と、一仕事を安堵に満たされて、味わうように穏やかに吐く呼吸とが騒がしく交錯するこの部屋で、しかし、おばさまの声は自然と、穏やかに、はっきり、響くのだ。
特に私の鼓膜には、この時のおばさまの声が、一番柔らかく、はっきりと響く。

おばさまは手早く、赤ん坊を繋いでいたものを切り離して、赤ん坊を清潔なおくるみに包んで、続ける。

「誇らしく思ったよ。人が生きるために、涙さえ捨てて、命も投げ捨てて、奪い合ってるその中で、やっぱり人は産まれて、泣くもんなんだって。絶望の只中でも、やっぱり命は生まれるんだって。それが真実で、美しいことなんだって、そう誰かに、何かに諭されたようでね」

おばさまが、くるんだ赤ん坊を母親の元に寝かす。
誰ともなく、静かな温かい嘆息が漏れて、穏やかな幸福感が満ちる。

同じ場にいるはずなのに、その幸福感すら、私にはどこか遠くて、優しい厚みを持ったおばさまの声だけが、はっきり近くに、私に響く。

「神様か、仏様か、とにかく何かそんなものがね、贈り物をしてくれたような気がした。こんな場末の、人類の歴史にありふれた、どうしようもない地獄に住む私たちに誰かが、希望として贈ってくれたように思えたんだ。私たちにとっての救いだった」

おばさまが暖炉で小さな鍋を火にかける。
何度も取り上げ、掬い上げてきた、年季の入ったガサガサの指で、今生まれた母子のために、脱脂乳を温める。

じっ、と、液体を温めるとろ火を見つめながら、おばさまはいつも言う。
「私たちにとっての、これ以上ない贈り物だった。『あなたへの贈り物ですよ』って言われた中でも一番の贈り物みたいに思ったんだよ」

でもね、とおばさまは続ける。

「でも、アンタは私への贈り物じゃない。『あなたへの贈り物』って渡されたものであろうとしなくていいんだよ。…私がこの瞬間を、この生殖を尊く見ているからって、アンタもそうである必要はない。この瞬間を、アンタが恐れたって、憎んだって構わない。その権利は、アンタにあるんだよ」

私に言い聞かせるように、そして自分自身にも言い聞かせるように、おばさまはいつもそう言う。

そう言われても、私は…戦場で、子を産んで息絶えた妊婦からおばさまに取り上げられた私は…、養母のおばさまの、その言葉の中の愛を、真意を、感じることはできても、理解はできなくて、結局いつも黙って小木箱の蓋をそっと閉じる。
そして、優しいおばさまに、何も返せずに細々と手を動かすことになる。

おばさまは決まって、そんな私に切なく微笑んで、鍋の取手に手を伸ばす。
おばさまの骨太な指の節々の皺に、おばさまの過去の影が指す。

私は、それに何も言えない。
喉が張り付いたように、いつも何も言えない。
そして、おばさまの目が私の視界に入って、その瞬間に、心の中で、弱々しく、しかしはっきり思う。

「私は、私がただ、あなたへの贈り物だったとしても構わない。私はあなたへの贈り物。それでいいの」

でもそれは言えない。
それを言ったら、言ってしまったら、私もおばさまも、ダメになる気がするから。

だから私は黙って、戸棚から哺乳瓶とマグカップを取り出す。
おばさまの、節くれだった影の指す手に、それらを差し出す。

おばさまは、切なく笑って、我に帰ったようにそれを受け取る。
おばさまの意識は、私から母子に移り、おばさまの手際が、現実味を増す。

私はおばさまのその背を見つめる。
丸く曲がったその背を。

そう遠くない、うんと遠くに、幸福感が満ちている。
おばさまは、そちらへ向かう。
私は、それを眺める。
おばさまの背を、見送る。

そちらへ行くための言葉を、私はまだ知らないから。

1/21/2025, 3:00:42 PM

椀の中に魚が泳いでいる。
南を見つめて、ぷかぷかと生きている。

風も波も入ってこれない船中で。
深い深い水圧の中で。
ただ魚だけ、指南魚の彼だけが、水を得て、南を見つめている。

真っ暗な海底では、地上の法則は通じない。
朝か昼か夜かを知るには、時計に電波を受信しなければならない。
日にちを忘れないために、金曜日はカレーを食べなければならない。
方角を知るには、指南魚に聞かなければならない。

真っ暗な海底の中を進む船で、私は働いている。
つまり潜水艦。
私たちは海の底の底を目指して、深く海に潜り、遥か海底の海を調査している。

海底は、大抵が未知の場所だ。
磁石や磁場が狂うところもあるかもしれない。
だから、この船では、羅針盤は生きていなくてはならない。
私たちは、磁場を利用した人工の羅針盤ではなく、天然の羅針盤を使っている。

それが、この椀の中をぷかぷかと、微動だにせず南を見つめて泳ぐ、この指南魚だ。
限りなく木片に近い鱗を持ち、すべすべに磨かれた木工作品のようになめらかなこの魚は生きている。
これが指南魚。
うちの羅針盤だ。
この船が、海底を彷徨ううちに発見した、新種の魚なのである。

この魚は、なぜか南を向いて、ひたすら南に進む習性がある。
小さなプランクトンを吸い込みながら、食事と呼吸と排泄を繰り返しながら、敵から逃げながら、しかし向きは変えずにただひたすら南進しつづけるのだ。

向きを変えることはなく、泳ぐ方向を変えることができるような機能も備えていない。
極めて原始的で、不都合な体を持つ魚。指南魚。
この辺りの海底には、この指南魚がいるのだ。

かつて、まだ羅針盤もない昔、羅針盤の針は、木と磁石で作られた魚の形で、その魚は必ず南を指したらしい。
そして、それは「指南魚」と呼ばれていたそうだ。
それがいつからか、地球の磁場による自然の摂理によるものと発見されて、そうして地上には羅針盤ができたという。

だから、この新種の魚を誰からともなく、皆、「指南魚」と呼ぶようになった。
その名があつらえたようにぴったりだから。

あまりにぴったりすぎて、時々私は疑っている。
ひょっとすると、磁石による人工の指南魚が発明される前は、私たちの先祖はこの魚を捕まえて方角を知っていたのではないか、と。

そのくらい、この魚は相変わらず、真面目に、律儀に、ぴったり南を向いて、ただぷかぷかと泳いでいる。
常に磁場や迷子の危機に晒されている私たちの船には、欠かせない羅針盤だ。
私たちの船は生きている羅針盤を積んでいる。

そして、私は、私たちの命を握る羅針盤である、この指南魚の飼育員として、この船に乗っている。

指南魚の南に餌を落とし、指南魚の北側の水を入れ替える。

指南魚は、反応しない。

この魚は、本当に外部の刺激に対しての反応が鈍いのだ。
だからこの指南魚が、私を理解しているのか、認識しているのかすらも分からない。

…私は、魚が、生き物が、動物が、好きで飼育員になった。
こちらを見つめる生き物の目が、こちらに反応する生き物の動きが好きで、生き物に愛を与えて、愛を返してほしくて、飼育員になった。

愛を込めて世話をし、その分、生き物から信頼されて、愛を得る。
それが飼育というもので、お世話だと思って生きてきた。

しかし、ここでの仕事は、愛を込めれば込めるほど、無機質で頼りない。
指南魚は、本当に反応がないのだ。
彼らはこちらを見もしないし、逃げもしないし、興味を持たない。

彼らは無機質で、クソ真面目で、堅苦しい。
彼らはただ、生態に従うのみで、私たちを仲間などとは思っていない。

私たちにとっては大切な羅針盤。
彼らにとってはただの外気。
私たちと指南魚たちは、そういう関係性で。

最近、私は、自分が飼育員であるのかが分からない。
私がしていることは、まるで、仲間の世話ではなくて、道具の手入れのようではないか。
私は飼育員ではなくて…ただの羅針盤の修理士…。

指南魚の目の前に、そっと餌を落とす。
指南魚はこちらを見ない。
口を少し開けて、餌と最小限の水を吸い込んで、それだけ。
もう私がこの個体を飼育するようになって、10年も経つというのに。
この船が、海底から出られなくなって、1年が過ぎようというのに。

指南魚は、本当に私たちの理想の羅針盤だったのだろうか。

指南魚は、南を見つめている。
ひたすらに、じっと。

1/20/2025, 1:37:45 PM

私には明日があと、374092日ある。
私の耐用年数が、あと1000年だから。
私には、明日があと、374092日ある。

途方にもない量の明日だ。
人間なら10回生きて死ねるくらいの長い、長い寿命だ。
そんなに長い間、私はこの額縁の中で、人間が作ったこの人工脳を絶えず動かして、生きて生きて、人の文明を記憶し、人の話し相手になるのだ。

途方にもない長い話だ。
先のことを考えると、うんざりする。
自分が見るこれから。
いったい何百人の人間を看取って、何千の命の終わりを見なくてはいけないのだろうか。
24時間の終わりを、いったい何度、見届けるのだろうか。(これは374092回だ)
そんなことを思うと、まだまだ遠い、自分の老い先にうんざりしてしまう。

だから、私は先のことは考えないことにしている。
ただ、明日へ向かって歩く。
一歩ずつ、一日ずつ。
すぐに来る明日のことだけを考えて、今日を生きる。
私は明日へ向かって歩く。
明日へ向かって歩く。歩いてきた。

私は明日へ向かって歩く、でも。

昨日、私を、曇った目で眺めていた瞳が、脳裏に残っている。

あれは、人工脳を、私の元となる技術を開発した、天才博士の瞳だった。
若くして、本当に若くして、僅か20代で、脳のシステムの驚くべき法則の一端を発見し、画期的な技術を生み出した、あの有名な博士。
富も名声も栄誉も得た、あの博士。

博士は私を見つめて、下を向いて、誰にも聞こえないような小さい声で、呟いていた。

「これから、人類史は全て残ってしまう。恥ずべき私たちの人類史が。彼女が記憶し、語り続けるから。私たちの、私たち人類の、黒歴史は、残り続ける。私の黒歴史が、こんな風に形を持ってしまったみたいに」

私は、明日へ向かって歩く。
自分の未来は長すぎて、考えるのもうんざりしてしまうからだ。
私は、明日へ向かって歩き続ける。そういう存在だから。

明日へ向かって歩く、でも、私は明日へ向かって歩き続けて良いのだろうか。
私は、私たちは、人類は。

私には明日があと、374092日ある。
私の耐用年数はあと1000年。

今日も朝が来る。
一日が始まる。
明日が来る。
新たな人類史の一日が、新たな人類の明日が。

私は明日へ向かって歩く、でも…。
私の明日が消えるまでは、あと374091日ある。

1/19/2025, 1:43:34 PM

背中からカバンを下ろして、ノートを開く。
既に字で埋まったページを捲る。
ペンを構えて、白いページを開いて、見慣れない真新しい空を見上げる。

道端に座って、ペンを走らせる。
白いノートに、いっぱいに。
この旅の、今日の、この気持ちを出来事を書き留める。

ただひとりの君へ。
ただひとりの君のために。

君はいつも憧れていた。
家の窓からは見えない、まだ見ぬ空に。
地元の町からは聞こえない、木々のざわめきに。
流れる川からは分からない、遥か遠くの海に。

私はそれをよく知っている。
ここよりもずっとずっと遠く、道の続く先に憧れる気持ち。
誰かから聞く冒険譚では物足りない。
自分の手で触れて、自分の肌で感じて。
そうして、まだ見ない世界を知りたい!
そんな気持ち。

君、ただひとりだった君は、幼い頃は病弱で、病院や自分の部屋のベッドから空を見上げて、いつもそう思っていた。
近所のお兄ちゃんが羨ましくて仕方なくて。
親戚のお姉ちゃんの旅の話が待ちきれなくて。

旅に出たかった。
大きな世界を知りたい。
広い空を自由に歩き回りたい。
ずっとそう思いながら、空を見上げて、ノートにやりたいことを書いて書いて溜めて。

冒険に行きたかったの。
私は知っている。

だから、幼い頃からの喘息が治って、真っ先にしたいと思ったのは、旅だった。
お気に入りのカバンを買って。
お気に入りのコートに身を包んで。
お気に入りのスニーカーを履いて。
一歩踏み出す。
未知の、見たかった世界を目指して。

窓から見る空よりも、外の空はずっと広くて。
その時、ただひとりの君…私は初めて知った。
窓から見ていたあの空も、ずっとずっと広く繋がって、いつか私の見たいと空想した、憧れの世界に繋がっていることを。

私がずっと寝ていたあのベッドも、私のまだ見ぬ世界に繋がっていることを。

その気づきが嬉しくて、楽しくて、それから、無性に、ただひとりの君へ、そのことを伝えたくなった。
だから私は、今日もノートを持って、旅をする。

ベッドの中で、空を見上げながら書いたあのノートと同じように、真っ白な表紙のノートに。
憧れの、旅の、世界の出来事をいっぱい詰め込んで。

そしていつかの、いつかのただひとりの君、ただひとりの昔の私へ、向けて。
いつかの私が、ただひとりでベッドに座る君が、目を煌めかせるような、そんなノートを。

私は今も、書いている。

この地からも、空が見える。
グレーの曇り空だけれど、空はずっと広がっている。
ずっとずっと、ただひとりの君の方へも。

私はペンを置く。
ただひとりの君へ、そう書いて。

1/18/2025, 1:52:13 PM

ある朝、起きたら、手のひらの中に宇宙が渦巻いていた。
しかも外宇宙。

右の手のひらの真ん中に、漆黒の闇。
昏い闇が真ん中にあって、それが引き伸ばされるように、薄い闇が手のひら全体に広がっている。
闇は手の外に向かって、じわじわ薄れていて、深くて浅いその闇の至る所に、数々の星雲と星団と銀河系が、渦巻いて生きている。

手をゆっくり握り、開いてみる。
手のひらの宇宙がゆっくり縮んで、ゆっくり広がる。
手の隅にあったいくつかの星団と銀河系の位置が、少し変わってしまった。
けれど、大半の宇宙は、変わらず蠢いていた。

指を入れてみる。
肌色の左指を、右手のひらにゆっくり差し込む。
吸い込まれそうな手のひらに、左指が吸い込まれる。
指の先が、真空を掻いた。
澱のような真空の手応えが、掻いた指先から、波紋のように渦巻いた。

また、いくつかの銀河系と星雲が、動いた気がした。
しかし、手のひらの中の宇宙は、シンと静まり返っている。

目を凝らせば、時々、昏い闇の中を、それよりも昏い影や白い何かが横切った。
何かがゴソゴソと走り回る。
手のひらの宇宙の、真空の中を、自由自在に。

けれども手のひらの宇宙は、その闇の淵を、静かに湛えていた。
昏い、昏い宇宙に。

ともかく、きっと朝なので、顔を洗おうと思う。
立ち上がり、洗面台に水を張る。
水に両手を浸す。
ゆらめく透明な水面の下に、どこまでも続く闇がゆらめく。
何かがスッと、一番手前の星雲を横切る。

顔に水を何度か打ち付ける。
目は完璧に覚めた。

けれど、右の手のひらには、まだ昏い宇宙が広がっている。

顔を伝う水滴をそのままに、右の手のひらの中の宇宙を眺める。
手の指から水滴が滴って、宇宙にポトポト落ちている。
手のひらの宇宙の漆黒が、微かにゆらめく。

そして、細い何かが闇の中に一文字に走って、スッパリ開いた。

頭が割れるように痛い。
目の奥が熱い。
奥の方で耳鳴りが唸る。

割れそうに痛い頭の奥、脳の中に、轟くように何かが閃いた。
「人の子よ。人の子よ。これが宇宙だ」

「人の子よ。愉快だろう?退屈だろう?」
「この宇宙の中で、数多の生命が生きている。数多の何かが、数多の世界が、数多の宇宙が生きている。この中で…」

頭が、割れるように、痛い。
目の、奥が、焼けるように、熱い。
耳が、耳の奥が、煩い。
脳が、頭が、痛い、溶ける。

「どうだ人の子よ。人の…子よ」
頭が、痛い。
あたまが、いたい。

「…ダメか。せっかく我を呼ぶ、我の言葉を聞いてくれる矮小なる生命が現れたというのに。現れたというのに」
「ああ、この矮小なる人の子も……」

音は止んだ。
身体中に鉛が流し込まれたように、重たくて鈍かった。
脳だけが、やけに軽い気がした。

いつの間にか、右手は真っ白に漂白されていて、宇宙は消えて、宇宙の中心だった手のひらには、黒い黒い穴がぽっかりと口を開けていた。

その黒い穴の中に、瞳が見えた。
喩えようのない、どんな色にすら反射する色を持った、獣のような目が、こちらをジッと見つめ、消えた。

後は黒い黒い昏い穴が、手のひらにぽっかり開いていた。

目の奥が熱い。
そっと目を閉じる。

瞼の裏に、あの、喩えようのない、何色ともつかない何色でもない色の目が、焼き付いている。

目を開く。
熱い。
目を閉じる。

あの目が、こちらを見つめていた。
悲しみとも哀れみともつかない目で、こちらを見つめていた。
強く強く見つめていた。

この目からは一生逃れられないんだ、何故かそう思った。
手のひらの宇宙は、もうない。
ぽっかりと、黒い穴が広がっているだけ。

目の奥が、熱い。

Next