薄墨

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背中からカバンを下ろして、ノートを開く。
既に字で埋まったページを捲る。
ペンを構えて、白いページを開いて、見慣れない真新しい空を見上げる。

道端に座って、ペンを走らせる。
白いノートに、いっぱいに。
この旅の、今日の、この気持ちを出来事を書き留める。

ただひとりの君へ。
ただひとりの君のために。

君はいつも憧れていた。
家の窓からは見えない、まだ見ぬ空に。
地元の町からは聞こえない、木々のざわめきに。
流れる川からは分からない、遥か遠くの海に。

私はそれをよく知っている。
ここよりもずっとずっと遠く、道の続く先に憧れる気持ち。
誰かから聞く冒険譚では物足りない。
自分の手で触れて、自分の肌で感じて。
そうして、まだ見ない世界を知りたい!
そんな気持ち。

君、ただひとりだった君は、幼い頃は病弱で、病院や自分の部屋のベッドから空を見上げて、いつもそう思っていた。
近所のお兄ちゃんが羨ましくて仕方なくて。
親戚のお姉ちゃんの旅の話が待ちきれなくて。

旅に出たかった。
大きな世界を知りたい。
広い空を自由に歩き回りたい。
ずっとそう思いながら、空を見上げて、ノートにやりたいことを書いて書いて溜めて。

冒険に行きたかったの。
私は知っている。

だから、幼い頃からの喘息が治って、真っ先にしたいと思ったのは、旅だった。
お気に入りのカバンを買って。
お気に入りのコートに身を包んで。
お気に入りのスニーカーを履いて。
一歩踏み出す。
未知の、見たかった世界を目指して。

窓から見る空よりも、外の空はずっと広くて。
その時、ただひとりの君…私は初めて知った。
窓から見ていたあの空も、ずっとずっと広く繋がって、いつか私の見たいと空想した、憧れの世界に繋がっていることを。

私がずっと寝ていたあのベッドも、私のまだ見ぬ世界に繋がっていることを。

その気づきが嬉しくて、楽しくて、それから、無性に、ただひとりの君へ、そのことを伝えたくなった。
だから私は、今日もノートを持って、旅をする。

ベッドの中で、空を見上げながら書いたあのノートと同じように、真っ白な表紙のノートに。
憧れの、旅の、世界の出来事をいっぱい詰め込んで。

そしていつかの、いつかのただひとりの君、ただひとりの昔の私へ、向けて。
いつかの私が、ただひとりでベッドに座る君が、目を煌めかせるような、そんなノートを。

私は今も、書いている。

この地からも、空が見える。
グレーの曇り空だけれど、空はずっと広がっている。
ずっとずっと、ただひとりの君の方へも。

私はペンを置く。
ただひとりの君へ、そう書いて。

1/19/2025, 1:43:34 PM