薄墨

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濃霧の中に、青い影が見える。
高く、大きく聳え立っている。

唾を飲み込み、踏み出す。
一歩一歩、湿った白い水蒸気の中を進む。
青い影が、ゆっくりと輪郭を定め、近づいてくる。

やがて、影ははっきりと形を保つ。
白い霧の中に、青銅の色をした石畳の塔が、細く高く、ぽつりと独立している。

「わぁ…!」
思わず感嘆の声が漏れた。

塔は、静まり返った白銀の霧の中に、冴え冴えと鈍重の色を湛え、静かに佇んでいる。
荘厳に。ぴくりとも動かずに。
温かみも生命の動きも音もなく、死のようにただひっそりと、不気味に塔は聳えている。

塔をゆっくりと見上げる。
濃い霧と荘厳な空気が、重たく頭上に立ち込めていた。
その重さを押し上げるように、ゆっくりと顔を上げる。
青い塔が、高く、高く続いている。
塔の遥か上の方には、青金色の重たそうな鐘が鈍く輝いている。
恐ろしいほどの静寂の濃霧の中に、恐ろしいほど脆弱で美しい塔が聳えている。

ここだ。
目指していたのはまさにこの地だった。

そう確信した。
出し抜けに、鐘がゆっくりと空気を震わせる。
ごぉん、ごぉん
低い音が、霧を掻き分けるように、響き渡る。
白い霧が一層深さを増して、冷たい空気が、ゆっくりと広がる。

「…わぁ!」
身震いするような冷たく重苦しい霧たちに、嘆息のような声が出た。
神々しさと荘厳さに、足がすくみ、かちりかちりと歯が鳴る。
とうとう辿り着いたのだ。
畏れと共に込み上げたのは、そんな達成感と、ワクワクした得体の知れない喜びだった。

私は、神を探していた。
自分をこの絶望から救ってくれるなら、なんでも良かった。
誰も守れない、大切な人も仲間もだれ一人守れなかった、この不甲斐ない自分の実力不足を忘れさせてくれるのなら。
たとえそれが怪物でも、悪魔でも、魔物でも、人間の子悪党だったとしても。

忘却の塔。
その塔の話を耳にしたのは、今から三年も前のことだった。
人生の恐るべき転換期、信じられないほどの大事件に巻き込まれて、そして、その作戦に完膚なきまでに大失敗して、庇われて、独、生きながらえてしまった命を持て余していたあの時に、私はこの塔の噂を聞いた。

曰く、「濃霧の深い森の最奥にある、“忘却の塔”は、入ったら最期、絶望も希望も過去も名前も、何もかも記憶から消されてしまう」そういう話だった。

その噂を聞いてから、私は件の“忘却の塔”をずっと探し求めていた。
存在ごと消えてしまいたかった。
私は逝きそびれた。
そして、私は仲間の元にいく資格なんてない。
忘却の塔が見つかれば、すぐにでも頂上に登り詰めて、存在ごとなくなってしまいたかった。
何者でもないただの人間になりたかった。

だから、私はここに来た。

目の前の景色は、陰気で荘厳で、無機質で、美しかった。
鐘の音も。壁の色も。濃い霧も。
心に不安と畏れと、それから妙な希望が胸に迫ってくる。
「わぁ!」
思わず、声が漏れる。
それだけに、小さい時に拾い集めた宝物のように、美しく見えた。
ずっと眺めていたいくらいだった。
触れてはいけない気さえした。

しかし、私は、消えてしまいたい。
その気持ちは、今も私の理性を支配していた。

だから、私は一歩踏み出した。
陰気で、畏ろしいその塔に。

本能は、強く後ろ髪を引いた。
感動は、強く袖を引いた。
感情は、強く足を止めた。
しかし、私の理性は、それらを許容することはできなかった。

私は足を引き摺り、体を引きずって、歩き始めた。
霧はみるみる深くなり、進むたびに、辺りの空気は冷え始めた。
でも、自分と記憶以外の全てを失った私の足は止められなかった。

冷たくなった白い霧の中で、白い息を吐いた。
「わぁ!わぁ…」
白い息はまだ感嘆を含んでいた。
子どものような無邪気な憧憬と畏れを含んでいた。

しかし、灰色の大人の私は、足を止めなかった。

私は一歩、一歩、足早に進む。
霧はどんどん濃くなる。
青い塔の輪郭も、自分の輪郭さえも曖昧になる。
「わぁ!」
口から息が漏れる。

寒さが身に染みる。
死の、消去の冷たい気配がじわじわと迫ってくる。
青い塔の、頑丈な青銅の扉が、ゆっくり、ゆっくりと近づく。
白い霧が、また増した。

1/26/2025, 3:24:38 PM