風に背中を預けてゆっくりと進む。
背を押す風は強い。
ちょっと痛すぎるほどに。
眼前には、青い海と青い空が広がっている。
荒くれた波が打ちつけている。
鳥人が飛べるというデマが広がって、もう随分と日が経つ。
そう、デマ。
僕たち鳥人は確かに翼を持っているが、空を飛ぶことはできやしない。
僕たちのご先祖さまは、空で鳥の一員になることを諦め、人類の一員となることを選んだのだから。
鳥のような軽い骨では、重力に逆らって、人間のように真っ直ぐ立つのは難しい。
僕たちはせいぜい、空を滑るように落ちることができるだけだ。
しかし、ある日、滑空して落ちる鳥人を見た他の人類は、鳥人もまた、鳥のように飛べると思い込んだ。
ソイツの投稿はあっという間に世界に広がって、世界中の人が、その勘違いを正しいことだと思い込んだ。
おかげで鳥人は、偏見という厳しい風当たりに晒され始めたのだった。
しかし、鳥人族というのは、風を読むのが上手い。
強かな鳥人族は、その勘違いをうまく利用して、人類社会での活動範囲を広げていった。
航空に関する仕事を請け負ったり、風を読む仕事に就いたり。
飛べなくても、他の人類より空と親しい僕たちは、空のスペシャリストとして生き続けた。
しかし、それも数十日前に終わった。
「鳥人は空を支配することで、人類のトップにのし上がり、他の人類を迫害しようとしている」
今度はそんな噂が流れたのだ。
人の噂は七十五日というが、まだこの噂はなくなる様子がない。
こうして、僕たちは人類から憎まれ、追い立てられるものとなった。
そして今、僕はこの崖から飛び降りろ、飛んで見せろと追い立てられてきたのだった。
今日の風は、内陸から海へ向かって吹いていた。
強く、冷たい風が、背中を強く押している。
僕たちを追い立てた後ろの追っ手にとって、そして今、落ちていこうとする僕にとって、この風は追い風だ。
僕は風に背中を預ける。
強く冷たい追い風に。
足元の海は波立っていた。
強く冷たく渦巻いている。
風に背中を預けて、僕はゆっくり足を踏み出す。
波が、風に煽られて強く打ちつけていた。
肉の甘さを噛み締める。
ああ、素晴らしい生活だ。
時間をかけて味わう。
纏わりつくような肉の甘さも、口の中で反発するような弾力も、はち切れんばかりの舌触りも。
君と一緒にいる証だから。
しっかり味わわないと。
私が動けるスペースもだいぶ狭くなった。
体が大きくなったから。
君の食べる量も、動く量も増えた。
もうすぐだ。
もうすぐ私は、日の目を見れる。
私と君の関係は逆転する。
私は君と一緒に、外の世界へ出ていける。
皮膚に酸素が張り付くこともなく、足や体が十分に伸ばせないこともない、自由で明るくて厳しい、外の世界へ。
そのために私は大きくならなくてはならない。
だから、私は食事を続ける。
肉を食いちぎり、丁寧に、丁寧に、君を取り込む。
君と一緒に、広い空の下に出るために。
君と一緒に、大人になるために。
君と逢えたのは運命だと思う。
私は、生まれて、君に卵を産みつけられた時から、君が好きだった。
あの、みずみずしい鮮やかな緑と、てちてちと規則正しく動く、あの足が好きだった。
体の中の、温かくて優しいあの振動が好きだった。
私は君の隅々まで好きだった。
だから私は君の中で羽化をする。
君の願いも、苦悩も、悲しみも。
君の肉も、血も、酸素も。
全部噛み締めて、君の中身をすっからかんにして、君の希望を願いを叶えてあげる。
キャベツ畑から飛び立ちたいという、君の夢を。
一緒に叶えよう。君と私で。
私は今日も君を噛み締める。
君の体内の中で、君の肉の甘さを噛み締める。
君の吸った酸素に生かされて、君の気持ちに共感しながら。
私は君と一緒に私になる。
君と一緒に、成虫になる。
私は肉の甘さを噛み締める。
ああ、素晴らしい生活だ。
でも、そろそろ変化が欲しい。
私と君の生活に、青い空が、新鮮な空気が、君を体内に収めたという満足感が、華が欲しい。
私は君の甘さを噛み締める。
羽化の季節はもうすぐそこまで来ている。
雲ひとつない空が広がっている。
葉がすっかり落ちた、やせ細った枝の上で、カラスが鳴いている。
日が出ていて、風がなければ、冬晴れの昼は暖かい。
暖かい太陽は、真っ青な空に高く登っていて、金色の煌めきを、地面の真っ白な雪たちに投げかけている。
嵐の前の静けさ、とは、こういうことを言うのだ。
手袋ごしに悴んだ手で薪を拾い上げて、ため息をつく。
この星が雪と氷に覆われてはや10年。
気温は下がり続け、夜の吹雪はだんだん酷く残酷になっている。
今夜も酷い吹雪になるはずだ。
研究棟の気象予報士のみんなが、口を揃えて吹雪を予報しているのだから。
今夜はいったい何人が、寒さで眠れなくなるだろう。
いったい何人が、寒さの中で永遠の眠りにつくだろう。
世界がずっと吹雪で、ずっと薄暗い雲に覆われた寒い寒い世界なら、私たち人類も、諦めて滅ぶことができたのだろう。
しかし、太陽は暖かい。
こんな寒くて凍える世界でも、日中、特に晴れの日は、すこし暖かい。
だからこそ、夜が、吹雪が、雪が。
私たちはまだ怖いままなのだ。
少しでも寒さを凌げるように、私は寒さの中で薪を拾う。
カチカチに凍りついた小枝を、藁束を。
厚い厚い雪の中から。
そうでないと、寒さと吹雪の恐怖にどうにかなってしまいそうだから。
太陽が雲ひとつない空の上で輝いている。
痩せ衰えた木の上で、カラスが鳴いている。
氷点下の世界でも、日の光は厚い雪の上に煌めいていた。
また始まった。
石炭を溶鉱炉に放り込みながら、ため息をつく。
「幸せとは!」
今日も幸せを説く外の人たちがうるさい。
ガラガラと音を立てながら、重い歯車がゆっくりと回っている。
水蒸気が回してくれているのだ。
石炭を投げ入れながら、煙を吸い上げてしまって、慌てて咳き込む。
この職場は、喉と肺に優しくない。
石炭の燃える煙が、ありとあらゆるところで黒煙をあげて、立ち込めているからだ。
「美味しい空気を吸うのが幸せ!」
外で何かがそう叫んでいる。
大抵、昼のこの時間帯に外で幸せを説くことができるのは、仕事を持たない者、仕事をしなくても暮らしていける者たちのみで、昼間にのうのうと幸せを説けるだけ、奴らは少なくとも、こうして昼に肺と喉を犠牲に働いている私らよりは幸せだろう、と思う。
…とは思いつつも、今の現状に不満があるわけではない。
毎日の仕事は体力を使うが、街を支えているというやりがいで心は満ちているし、肺や喉をやられていても、家族がみんな楽しく暮らせている。
空を汚しているこの石炭が生み出した機械の技術で、先の戦争で足を失った父さんも、義足をつけて自由に歩き回れている。
あの黒煙が上っているおかげで、私たち人間はキツい肉体労働を全て機械にさせることができる。
この街では、綺麗な空気を吸うのが幸せなんて話はこの街で働いたことのない、一部の“幸せ”な人たちの戯言で、だからこそ、労働者階級の私たちは、彼らを無視していた。
この街の空は今日も黒い。
でも私たちは、今日も幸せだ。
オレンジの丸い光が、山の間からはみ出している。
白み、薄い水色に染まった空に、橙の日の出の光がゆっくりと満ちている。
冷たい朝の風の中、山の向こうから登る日の出を見る。
御来光だ。
そういえば、昔、人々は太陽を神様だと考えたらしい。
太陽系において、世界は太陽を中心に回っているから、それはひょっとすると遠からず、ある意味真実なのかもしれない。
太陽が、半熟の黄身のように山の隙間で膨れて、光を空に溶かしながらゆっくり、ゆっくり上がっていく。
今日の朝ごはんには目玉焼きが食べたい、と思う。
太陽はのんびりと上がっていく。
周りの空気がだんだん温まっている気がする。
道草を嗅ぎ回っていた飼い犬がふと顔を上げた。
道の向こうから、一人のお爺さんがやってきていた。
「おはようございます」
挨拶をすると、向こうから現れたお爺さんもにこやかに会釈をされた。
お爺さんの後ろにも、太陽の光が満ちている。
温かい光を背に、お爺さんもゆっくりゆっくり、こちらへやってきた。
だんだん、周りの空気が温まっている気がする。
お爺さんは、隣まで来ると、目を細めて、日の出を眺めた。
飼い犬が落ち着かない。
日はゆっくりと上る。
もうすぐ日の出は終わり、朝が来る。
そろそろ行こうか、そんな気になる。
飼い犬が落ち着かなさげに、リードを引くからだ。
私は名残惜しく日の出から目を逸らし、道の方へ向く。
その時、私は初めて気づいた。
隣のお爺さんの背が、太陽が当たっていないのに、温かな光を浴びていることに。
御来光だ。
飼い犬が落ち着かなさげにリードを引いた。