目標を立てるのは苦手だ。
未だに真っ白な半紙を眺める。
新年一発目の書道教室は、いつも「今年の抱負」。
だから、計画を立てるのも目標を立てるのも苦手な僕は、いつも困ってしまう。
筆を持つのは嫌いじゃない。
書道教室でなら、みんな静かだし、心が落ち着く。
筆を墨に浸して、背筋を伸ばして、真っ白な半紙に、ゆっくりと筆を下ろす、その瞬間もなんかいい。
だから書道教室自体は嫌いじゃないんだけど…
でも何かにつけて、行事ごとに目標や願い事を書くことになるのが大変だ。
大人が喜ぶくらい子どもらしくて、でも友達に揶揄われないそんな願いや目標を考えるのは、結構骨が折れる。
それで、今年の抱負だ。
いったい何を書けばいいんだろう。
来年の中学受験のことを書く?
でも「〇〇中合格!」なんで書いて落ちた暁には、きっと大人からは腫れ物に触るように扱われ、友達からは揶揄われるだろう。
じゃあ、「健康第一」とか?
それじゃあ、子どもらしさが足りない。
大人からやんわり「考え直しなさい」とか言われるのがオチだ。
それに友達からは「ジジくさい」って言われそうだ。
本当に何を書こう…
「はよかけよー!」
仲がいい低学年のあの子が、揶揄う。
ええい!もうどうにでもなれ!
僕は筆に墨を含ませて、一気に半紙に下ろす。
それからさっさと動かして書き上げる。
怒られたって知るか、この六年間でもうネタ切れだ。
僕は筆を置く。
半紙には僕の字で、でかでかと「今年の抱負」と書かれていた。
一月一日。
カレンダーにはそう書かれている。
昨日、王から配布されたカレンダーは、年明けを指していた。
私たちは、六ヶ月も前倒しに、年明けを迎えている。
この国の暦が変わったからだ。
あっという間に年を経る、光陰矢の如し、というのは、本当はこういう状況を指すのだろう。
年明けの祝酒をバタバタと運びながら、外を見やる。
外は相変わらずの晴れ渡った澄んだ空だ。
急な改暦の発端は、この地の支配者であり、政治家である王の愛妾が子を宿したこと。
遠い昔、王の先祖が平らげ、この国の属国とした西国から王に嫁いだ愛妾が、今なお子が出来ずに困り果てていた王の子を産んだのだ。
玉のような御子で、しかも男の子だった。
民衆は大層喜んだが、王とその関係者たちの気持ちは複雑だった。
日数がどうしても合わなかったからだ。
9ヶ月前の頃、ちょうど他国との領土争いと、宗教戦争の援軍要請があり、王は忙しく国の内外を飛び回っていた。
最後の愛妾と王の伽は、もう一年も前のことで、だからこそ、事実を知るものはみな、訝しんだ。
しかし、後継のいない王政は不安定である。
常に、“次の王をどうするのか”という不安がつきまとうからだ。
だから、政治に関わる全ての者は、-裏切られた被害者かも知れぬ王さえも-生まれた御子を手放すことを躊躇った。
我が国の王は、聡明な王だ。
自分の私情で政治を乱すことと自分の感情を抑えて政治を安定させることを天秤にかけ、後者を選んだのだ。
王は、御子を正式に自らの子とし、跡取りにすることを決めた。
そして、王はまた、慈悲に溢れた気性であられた。
生まれたその子が、自分の出自に悩まぬよう、愛妾の不祥の証拠を、隠滅することを選んだ。
それが改暦であり、改暦に伴う御子誕生の盛大なお祝いであった。
私は、王のこの判断を尊敬している。
王の顔すら見たことのない侍女の身で、烏滸がましいことではあるけれど。
私は王を尊敬している。
そして、王子となる御子は幸せだと思う。
私もまた、不義の子だったから。
私は王を尊敬している。
この改暦に感謝もしている。
だから、目一杯、この新年の訪れを祝おうと思う。
他の人がいくら批判的に思っていても。
周りが皆、面倒だと思っていても。
私はこの新年をめでたいと思う。
誰がなんと言おうと、私だけは、新年の訪れを喜びたいと思う。
肉を焼き上げ、大皿に乗せる。
酒瓶と取り皿とグラスを運び込む。
温かなお祝いの風景が、少しずつ出来上がっていく。
新年だ。
新しい年の、新しい暦の、始まりだ。
たった六文の年越し蕎麦を啜る。
今年も終わる。また一歳年をとる。
「良いお年を」はよく忘れてしまう。
話しているうちに、これが今年最後の出会いだということを忘れてしまうのだ。
代金を払ったり、近況報告をしたり、そういう、細やかなあれやこれやの前では、年が終わるだなんて大局的で大雑把なことは忘れてしまう。
そして、見送った後に、(良いお年を、と言えば良かった)と一人で反省をしながら、隙間風に身をすくめる。
最近の数日間はそうやって過ごしてきた。
きっと、ここ近年は、貧乏神や福の神にさえ、「良いお年を」を言い忘れているのだろう。
毎年毎年、改善もしないが、悪化もしない、そんな年末を細々と暮らしている。
そして、今年の決済をすっかり終えた後、屋台を呼び止めて、たった六文の年越し蕎麦を啜る。
年越しはいつもそう。
そして、屋台のおっちゃんにさえ、「良いお年を」を言い損ねるのだ。
蕎麦を啜り、かき揚げを齧る。
年末でも蕎麦は変わらず美味い。
いつもと同じ夜闇。
いつもと同じ蕎麦の味。
いつもと同じ屋台の色。
けれど明日は今日とは違う。
明日は新しい年が来る。
良いお年を。
そんな言葉と一緒に酒を飲む。
もうすぐ年が明ける。
今年が、終わる。
マイ、プレジデント
一年が終わります
今年の書類をまとめて、端を揃える。
もうあと数時間で今年が終わる。明くる年がくる。
メディアでは、すでに“一年間を振り返る”という言葉が、どこかしこで聞こえる時期になっている。
年末になっても、我がプレジデントに仕事納めは来ない。
公の長と呼ばれる立場たるもの、年末年始にも休むわけにはいかないのだろう。
私はこたつで、そんなプレジデントの働きぶりを見ながら、自分の家の書類整理をしている。
本当は年末年始も仕事をするつもりだったのだが、無理矢理休みを入れられてしまった。
「きちんと休んで、きちんと自分の一年間を振り返りなさい。私込みの仕事のことだけでなく、私生活をね」
プレジデントはネクタイを絞めながらそう言って、私に休みを押し付けた。
こうして私は、家に帰って、家の大掃除に精を出しながら、この一年を振り返る。
プレジデントの言い付けに従って。
書類整理は一年間の振り返りにはぴったりの作業だった。
なにしろ、今年はプレジデントにつきっきりで仕事をした仕事の年だったのだから。
これは、今年の健康診断の案内。今年は特に問題なかった。
これは、家の近くにできた新しいエステの広告。あまりエステとかは行かないので、不要だ。
これは、今年の水道代の明細。廃棄が追いついてないからたくさんあるが、値段は大したことない。
今年は家を空けることが多かったからだ。
ハガキをハサミで切り刻みながら、こたつ布団に鼻を埋める。
もう12月も後半となるとさすがに寒いものだ。
つけっぱなしのテレビでマイプレジデントが、インタビューを受けている。
「この一年間を振り返って、コメントお願いします」
年末年始を返上して仕事をするテレビ局のインタビュアーが、明るい声で質問する。
私は耳を傾けながら、今年の書類に書かれた個人情報を切り刻む。
新年がもうすぐそこまで来ている。
やっちまった。
鼻に皺を寄せつつ、段ボールの中を覗いて、ため息をつく。
はち切れんばかりのフレッシュな甘い柑橘の香りを、香水の如くに振り撒きながら、ぱっつり膨れたまん丸のみかんが詰まっている。
ぽってりとした濃度の高い橙色が、目に眩しい。
生き生きとした、瑞々しい橙、橙、橙、の中に、さりげなく紛れて、はさはさと毛羽だった白と青錆の塊が、隅の方に顔を出す。
腐らせてしまった。
みかんを。
しかも発見が遅れた。
この塊の大きさなら間違いなく4個は感染している。
またあの子に怒られる。
みかんの腐敗は進みやすいし、うつりやすい。
腐ってしまったものはさっさと引き上げないと、接している周りのみかんは全滅してしまうのだ。
とりあえず、腐ってカビに覆われてしまった奴らを処分しなくては。
キッチンにビニール袋とゴム手袋とマスクを取りに行く。
正直、腐ったみかんの感触は苦手なのだ。
ぶよぶよでだるだるで掴めるだけの弾力はあるのに、掴みどころのない、あのじゅくじゅくの柔らかさ。
皺のよったじゅぶじゅぶの皮と、それを覆う、白青錆。
この感触には、いつまで経っても慣れない。
握るたびにゾワッと総毛立つ。
もし、腐ったみかんを回収してくれる業者があるのだとしたら、ぜひお願いしたい。
一回1000円とかでも全然許容範囲。有料オプションで、傷ついたみかんの検分とかもしてほしい。
でも、一回5000円とかならちょっと躊躇するかも。
まあでも、現実、少なくとも今僕が生きているこの世界線には、そんな職業存在しないのだから、腐ったみかんを回収し、箱の中で腐敗を免れたあまねくみかんたちを救い出せるのは僕しかいない。
なんてことだ。
僕はみかんなんて好きでもないのに。
むしろ嫌いだ。
匂いですら嫌い。
しかしやらなくてはならない。あの子のために。
しっかりしろ。
僕は泣く子も黙る博士様にして技術者なのだから、この難問も、華麗にクリアしなくてはならない。
こんなみかんも回収できないようじゃ、時間軸と世界線の関係性を解明し、時間も世界線も自在に移動できるようにした世紀の大博士、二代目シュレディンガーの名が廃る。
僕は耳をイカのエンペラのようにすくめつつ、再びみかんの箱の中身に向き合う。
それにしても、みかんが好きだなんて、あの子はなんて変わっているんだろう。
まあ、仕方ない。
真人間_ホモ・サピエンスは、雑食の中でもとりわけ悪食で、工夫次第でなんでも食べてしまうのだから。
この柑橘系の総毛立つようなゾッとする匂いも、あの子から見れば(正確には嗅げば)、口に唾が溜まるくらい美味しそうな香りなのだろう。
僕、猫人間_フェルス・サピエンスには、全く良さなど理解出来ないが。
しかし、僕はあの子_みかんが好きなホモ・サピエンスの子どもの養父なわけで、そのために、彼女の健全な心身の生育のため、幸せな子ども期を形成する義務が生じている。
だから、僕はみかんを回収しなくてはいけないのだ。
可及的速やかに。この、みかん箱にたっぷり詰まったみかんたちを救い出さなくては。
僕は意を決して、ゴム手袋を履く。
ビニール袋を構えて、手を伸ばす。
みかんの柑橘の香りが箱から立ち上った。