薄墨

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やっちまった。

鼻に皺を寄せつつ、段ボールの中を覗いて、ため息をつく。
はち切れんばかりのフレッシュな甘い柑橘の香りを、香水の如くに振り撒きながら、ぱっつり膨れたまん丸のみかんが詰まっている。

ぽってりとした濃度の高い橙色が、目に眩しい。

生き生きとした、瑞々しい橙、橙、橙、の中に、さりげなく紛れて、はさはさと毛羽だった白と青錆の塊が、隅の方に顔を出す。

腐らせてしまった。
みかんを。

しかも発見が遅れた。
この塊の大きさなら間違いなく4個は感染している。
またあの子に怒られる。

みかんの腐敗は進みやすいし、うつりやすい。
腐ってしまったものはさっさと引き上げないと、接している周りのみかんは全滅してしまうのだ。

とりあえず、腐ってカビに覆われてしまった奴らを処分しなくては。
キッチンにビニール袋とゴム手袋とマスクを取りに行く。

正直、腐ったみかんの感触は苦手なのだ。
ぶよぶよでだるだるで掴めるだけの弾力はあるのに、掴みどころのない、あのじゅくじゅくの柔らかさ。
皺のよったじゅぶじゅぶの皮と、それを覆う、白青錆。
この感触には、いつまで経っても慣れない。
握るたびにゾワッと総毛立つ。

もし、腐ったみかんを回収してくれる業者があるのだとしたら、ぜひお願いしたい。
一回1000円とかでも全然許容範囲。有料オプションで、傷ついたみかんの検分とかもしてほしい。
でも、一回5000円とかならちょっと躊躇するかも。

まあでも、現実、少なくとも今僕が生きているこの世界線には、そんな職業存在しないのだから、腐ったみかんを回収し、箱の中で腐敗を免れたあまねくみかんたちを救い出せるのは僕しかいない。

なんてことだ。
僕はみかんなんて好きでもないのに。
むしろ嫌いだ。
匂いですら嫌い。
しかしやらなくてはならない。あの子のために。

しっかりしろ。
僕は泣く子も黙る博士様にして技術者なのだから、この難問も、華麗にクリアしなくてはならない。
こんなみかんも回収できないようじゃ、時間軸と世界線の関係性を解明し、時間も世界線も自在に移動できるようにした世紀の大博士、二代目シュレディンガーの名が廃る。

僕は耳をイカのエンペラのようにすくめつつ、再びみかんの箱の中身に向き合う。

それにしても、みかんが好きだなんて、あの子はなんて変わっているんだろう。
まあ、仕方ない。
真人間_ホモ・サピエンスは、雑食の中でもとりわけ悪食で、工夫次第でなんでも食べてしまうのだから。

この柑橘系の総毛立つようなゾッとする匂いも、あの子から見れば(正確には嗅げば)、口に唾が溜まるくらい美味しそうな香りなのだろう。

僕、猫人間_フェルス・サピエンスには、全く良さなど理解出来ないが。

しかし、僕はあの子_みかんが好きなホモ・サピエンスの子どもの養父なわけで、そのために、彼女の健全な心身の生育のため、幸せな子ども期を形成する義務が生じている。

だから、僕はみかんを回収しなくてはいけないのだ。
可及的速やかに。この、みかん箱にたっぷり詰まったみかんたちを救い出さなくては。

僕は意を決して、ゴム手袋を履く。
ビニール袋を構えて、手を伸ばす。

みかんの柑橘の香りが箱から立ち上った。

12/29/2024, 2:24:01 PM