前日の夜に熟睡できたためしがない。
遠足の前の日。受験の前の日。修学旅行の前の日…。
僕は、イブの夜にしっかり眠れたためしがないのだ。
そうして、今年のクリスマス・イブの夜も眠れないでいる。
すでに時刻は23:00。
サンタさんはもう仕事を始めているだろう。
布団の中で寝返りを打つ。
クリスマスの予定は特にない。
ツリーもリースもない無機質な一人暮らしの部屋で、それでも僕は、イブの夜に眠れない。
変な癖だが、なぜこうなったのか理由は分かってる。
僕のキンちゃんが死んだのが、僕の誕生日のイブの日だったからだ。
夏祭りで掬って、一年半も長生きした金魚のキンちゃんが浮いていたのは、僕が誕生日に満面の笑みで起きて来たあの日だった。
僕は泣かなかったし、嘆かなかった。
だって、もうキンちゃんの世話はもっぱら母さんの仕事になっていたから。
でも、僕はその日から、何かの日の前日は、一睡もできなくなった。
だから、その年から僕の枕元にプレゼントが置かれることはなくなり、代わりに同級生の誰よりも早く、サンタの正体を知ることになった。
そして、僕は今日もイブの夜を越す。
布団の中で、目を開いたまま、一人で。
今年のクリスマス・イブの夜も明けていく。
今年も黒い夜空に、月が光っていた。
リボンと包装紙を220円で買う。
最近のラッピングは有料だから。
ビニール袋と同じように聞かれるものだから、つい断ってしまったのだ。
プレゼントに、ラッピングは欠かせない。
ただの市販のお菓子も、パッケージが煩雑なおもちゃも、包めばプレゼントらしくなる。
況んや、雰囲気充分のプレゼントなら、だ。
ケースまでついた万年筆。
父親の還暦祝いに奮発して買ったプレゼントだった。
でも渡せなかった。
還暦を迎える前に、父親は亡くなってしまった。
一瞬のことだった。
居眠り運転の車が突っ込んできて、父は亡くなった。
父親の還暦は、年明けに迫っていた。
お葬式は、クリスマスになった。
年末の休業日が迫る中、落ち着いて父の死を悼める日どりはそこしかなかったのだ。
だから、私は今年、初めて父の枕元に、クリスマスプレゼントを置くことにした。
私が幼い時に、父がしたように。
父が寝ているのは、布団ではなく棺だけれど。
父はもう起きることはないけれど。
しかし、私はラッピングを忘れていたのだ。
還暦祝いなら、プレゼントの渋い中身むき身のこのままで、充分だったろう。
クリスマスプレゼントなら話は別だ。
最初で最後の、死出の旅のお供になるプレゼント。
妥協はしたくなかった。
…しかし、小心者の私は、喪服でクリスマス一色の雑貨屋や専門店に入って行くことができず、近場の100均で、こそこそ包装を買うのだ。
父が生きていたら、きっと呆れて、笑われただろう。
プレゼントには包装は欠かせない。
私は220円を払って、包装紙を買う。リボンを買う。
陽気なクリスマスキャロルが、店内に流れていた。
黄色く分厚い皮を割る。
包丁で切れ込みを入れたところを広げて。
酸っぱい香りが、ふわっと立ち上る。
ゆずの香り。
果物の甘さの中に、強く酸味のフレッシュさが香る、あのゆずの香りだ。
それだけでなんか嬉しくなる。
ゆずを割る。
今日は、休日。私にとってはゆずの日だ。
たくさんもらってしまったゆずを加工する日。
しばらくうんざりするほどこの香りを嗅ぐことになるだろう。
ゆずを小さく分割していく。
ゆずを使う料理って何があるだろう。
とりあえず、保存の効きそうなジャムやゼリーは作ろうと思うのだが…そのうち飽きそうな気がする。
ため息をついて、傍に積んであるゆずの山を見る。
なぜこんなにゆずをもらってしまったのか、私は。
旬の片田舎で、たくさんもらう機会があったにしても。
これでは冬至が来る前に、ゆずの香りにうんざりしてしまいそうだ。
ゆずを割りながら考える。
なぜ私はこんなにも見境なくゆずを集めたのか…
そういえば、小さい頃、柑橘系は好きだった。
特に大きいやつ。
親にせがんで剥いてもらって食べるのが好きだった。
やれやれと呆れながらも、大人が自分の前で、果物を割ってくれる。
その時に立ち上る酸味の強力な甘酸っぱい香りが好きだったのだ。
だからゆずを受け取る時、妙にワクワクしたのだろうか。
ゆずの香りを分割しながら、そんなことを考える。
しかし、ゆずはそのままではとても食べられないすっぱさをしている。
せめて食べられる文旦だったら良かったのに。
自分の性質を自分で恨む。
自分にうんざりしながら手を動かす。
ゆずを細かく割り終わって、ボウルに入れる。
二つ目のゆずに手を伸ばす。
あんなにうんざりしてたのに、やっぱりゆずを手に取る瞬間は、根拠なくワクワクした。
寒い。
屋上から見上げる空は、どこまでも広く、寂しい。
無機質なコンクリートにひっくり返って、大空を見上げる。
雪国のこの地で、真冬だというのに、真っ青に広がるこの大空は珍しい。
太陽の光がポカポカと当たるのも貴重だ。
それにしても寒い。
屋上には壁がないから、全ての風が吹き曝しになる。
冷たい風が四方八方から吹き込んできて、しかもひっきりなしに入れ替わるから、暖かい太陽も太刀打ちできないのだ。
自分の頬が冷たくなるのを感じながら、手を空の方に伸ばす。
冷たい風が手を撫でていって、体に寒さが通り抜けていく。
屋上に登ったのはただの気まぐれだった。
暖房に包まれた室内の空気がなんだか、のたっと鉛のように粘ついている感じがして、外に出たくなったのだ。
特に吹き曝しの場所に。
寒い。
寒いが、空気がスッキリしていて、気持ちがいい。
大空を烏が飛び去っていく。
「時にはなにか、大空に 旅してみたく、なるものさ」
学校で音楽の授業の時に習った歌が、口をついて出た。
確かあれは気球で大空を旅するのだったっけ。
烏は自由に飛んでいる。
すごく気持ちがよさそうだ。
私も空を飛んでみたい。
手を伸ばしたまま、大空を味わう。
もっと空に潜りたい。
大空はどこまでも広がっている。
カランコロン
ドアベルの音が響き渡る。
思ったより音が大きくて、ドキッとする。
陽気なクリスマスソングが、店内を満たしている。
しゃんしゃんと、ベルの音が、背景の背景で穏やかに流れている。
案内された席に座って、外を眺める。
雨が小さく降り注いでいる。
結露に覆われた窓のそばには、やたら甘ったく美味しそうなホワイトチョコレートのパフェの広告が貼り付けられている。
コーヒーを待ちながら、カフェの入り口を見つめる。
ベルの音を待ち侘びる。
今日は約束の日なのだ。
私がここへやって来たのは、バイトのためだった。
来たる25日のための。
毎年、24日から25日の夜は、バイトに出る。
仕事内容は簡単に言えば、運び屋だ。
物の仕分けと、配達と。
ベルの音に見張られながら、法律など知らぬふりをして、大量の荷物を届ける。
夜通しそんなことをするバイトだ。
人に見られてはいけないし、見つかってもいけない。
痕跡を残すのもNGだ。
厳しくて難しい仕事だが、私は毎年、この仕事を受ける。
そのために、私はここに来た。
待っているのは恰幅の良い、白い髭を生やしたあの人だ。
私は毎年、一週間前に北欧のこのカフェに訪れる。
24日から25日のバイトに応募するために。
荷物を運ぶために。
やってきたコーヒーを飲みながら外を眺める。
雨が止んでくれればいいのに。バイト当日が悪天候だと、仕事はとてもキツイのだ。
カランコロン
ドアベルの音が鳴る。
待ち人はまだ来ない。
私の待ち人の雇い主は、甘いものが好きだから、あの広告のパフェも好きかもしれない。
そう思いながら、コーヒーを啜る。
奴は、私よりずっと年上で体も大きいのに、仕事の影響か、苦いものや渋いものが苦手なのだ。
そして、甘いものや油濃いもの…つまり、子供の好きな食べ物が大好きなのだ。
私は甘いものも油濃いものも苦手だ。
だから、彼が食事をするのを眺めていると胸焼けをする。
今日も彼は甘いものを頼むだろうか。
パフェでも頼んでおいてみようかな、そう思いながら、ペラペラとメニューを捲る。
毎年のことだが最近は買い出しで忙しいだろうから、ゆっくり待つか。
そう思いながら、私はドアベルを見つめながら、耳を澄ます。
ベルの音が空から聞こえくるのを聞き逃さないように。
カランコロン
カフェのドアベルがまた鳴る。
私は待つ。コーヒーを啜りながら。
25日の雇い主、サンタクロースを。
しゃんしゃん。
カフェの店内に、陽気なベルの音が鳴り響いている。