千切れた腕の先が痛い。
幻肢痛と、いうらしい。
這いずって歩く床は、想像していたよりもずっと固くて、冷たい。
荒れ放題の光景が広がっている。
いろんなものが散乱して、不規則に道を塞いでいる。
障害物だ。
赤い、生ぬるい何かを引きずりながら、前に少しずつ進んでみる。
だいぶ軽くなったはずの体が重い。
目には見えない手がまだありそうな気がしていた。
だから、前に進んだ。
約束を果たそうと思ったから。
あなたは臆病で、怖がりだった。
飛行機に乗る時も、どこか、新しいところへ行く時も、一歩を踏み出す時も。
何かあると必ず、手を握ってほしい、と私に手を伸ばした。
そして、一歩歩き出せば、あとは自分で進んでいける。それがあなただった。
一歩踏み出してしまえば、あなたは生きていけるから。
あなたは、踏み出す一歩目の勇気にだけ、私が必要だから。
だから。
だから、手を繋いで。
最期に手を繋いで。
私が動けなくなった後のあなたの人生の一歩目を。
私がいなくなっても、歩けるような一歩目を。
体を動かす。
障害物が腹這いの体の下で、ゴロゴロ痛む。
私は手を伸ばす。
あなたの方へ。
さあ、手を繋いで
大切な人を庇って死ぬというのは、大切な人にとって、酷いことだ。
遺された人は、自分が死因となったことを苦しみ、救われたことに苦悩しながら生きていかなくてはならないから。
よく、口説き文句で、「命を賭けて君を守る」なんてのがあるが、本当にやられたら、その人のその後の人生には一生苦悩がついて回る。
大切な人を「命を賭けて守る」ことは、実は一番、自己中心的で、酷いことなんだと思われる。
だから、大切な人を庇って死ぬ、なんて、本当はやってはいけないのだ。
大切な人を庇うのなら、きちんと生還しないといけない。
そうしないと、大切な人に一生残る傷を負わせることになるから。
生き延びる自信がなきゃ、庇ってはいけないのだ。
君に向かってアイツが、斧を振りかぶって突っ込んできた時、僕は本当は逃げなきゃいけなかった。
「あなただけは生きて!」君はそう言ってくれたのに。
僕は君が死ぬのが耐えきれなかった。
逃げ出すことができなかった。
そして傲慢だった。
僕は君を庇ってしまった。
君の死に顔を僕が見たくないばっかりに。
斧で切り付けられて生き延びる自信なんてなかったのに。
切り付けられて倒れた僕に、君は泣きながら駆け寄った。
だから考えなしに庇うのはダメだったのだ。
アイツは容赦なく斧を振るった。
僕は…
僕は、なんて罪深いことをしてしまったのだろう。
僕を抱き抱えて、泣きながら、斧に今打たれようとする君に、僕は…僕は…
「「ありがとう。ごめんね」」
僕が絞り出したのとおんなじ言葉を、君が言った。
僕は余計に悲しくて、自分を呪った。
泣いている君の顔。
その奥に斧を振りかぶるアイツの、醜い形相が見えた。
眼鏡をかけた。
学校の視力検査に引っかかって、つい一ヶ月前に買ってもらったばかりの眼鏡を。
かけるのはお店でかけて以来、初めてだ。
揶揄われるのが怖くて、何かあったのかと勘繰られるのが嫌で、まだ人前につけて行ってないのだ。
目が疲れている気がしたので、眼鏡をかけた。
目は疲れていても、定期テストは待ってくれない。
いくら目が疲れていても、今からはテスト勉強をしなくてはならない。
勉強では目を凝らすから、見えやすい眼鏡をかけていた方が、目にも負担が少ないはずだ。
それに、確かこの眼鏡のレンズには、ブルーライトカット効果もついていたはずだし。
眼鏡をかけると、急に視界がはっきりした。
世界がくっきり、絵の中のようにハッキリと発色される。
天井はいつもより白く、まっすぐで。
スマホの画面は、わずかに反っている。
エアコンの上、照明の傘にうっすら積もった埃が見える。
遠くの文字も読むことができる。
ぼやけていた輪郭が、ピンとしている。
まるで、輪郭を縁取ってから塗った塗り絵だ。
眼鏡をかけて、部屋の中を見まわした。
窓ガラスは、白い指の跡が残っていた。
床には、細い髪の毛が落ちていた。
目が良くなると、掃除がしたくなる。
今までぼんやりとした輪郭の中で、物や背景に溶け込んでいた汚れが、ハッキリ見えるから。
ふと、部屋の片隅を見上げた。
三辺に伸びる部屋の輪郭が、部屋の角の一点に集まって、固まっている。
壁の白が、部屋の片隅に集して、小さな白い一点を作っている。
妙に魅力的だった。
そんな部屋の片隅に、薄汚れた灰色の綿埃が、薄々と積もっていた。
白い点は微かに濁っていた。
…なぜだか急に、それが許し難いことのように思えた。
私は、掃除機を手に取る。
埃払いのパタパタを引っ張り出して、もうボロボロの布を、ボロ切れにして、水に浸す。
「急にどうしたのー!」
騒ぎを聞きつけたママの声が、階下から聞こえたけど、もう知ったことではない。
掃除をしなくては。
あの部屋の片隅の埃を払って、窓を水拭きして、床の汚れはみんな掃除機に吸い取って…
私はマスクをつけると、部屋の片隅で黙々と掃除を始める。
眼鏡の魔法にかけられて、ゆっくりと。
窓を磨き、掃除機をかけ、部屋の隅をはたく。
ボロ切れやボロの歯ブラシを汚れに当てこすり、掃除機やコロコロを床に這わせて、埃を絡めとる。
なんだか気分がスッとする。
私は黙々と掃除を続ける。
埃を取り、煤を磨き、ゴミを捨てる。
部屋の片隅から片隅へ。
部屋の片隅で、なんとなく一生懸命に掃除をする。
…明日のテストから目を逸らしながら。
徳が溜まりそうだし、これもある意味テスト対策である。
そう言い訳をしながら、私は掃除を続ける。
部屋の片隅で。黙々と。
蝙蝠傘が欄干に吊ってある。
混乱した。
どういうことだ。
あいにく、答えてくれる家の主は居なさそうだ。
なぜか待ち合わせに全く来ない友人の家の扉が、不用心に開いていたなら、相場は、欄干に吊られているのは首なのではないだろうか。
だが、蝙蝠傘だ。
室内の、真ん中の欄干に吊り下がっている。
真っ黒の、しかも中途半端に骨が曲がっているせいで、遠目に見たら、本物の蝙蝠にさえ見える。
なんなのだろうか。
現代前衛アートだともいうのだろうか。
しかし、作者はいない。家中に響く声で呼ばわったのに。
蝙蝠傘だけがそこにある。
逆さまに、欄干からこちらを見ている。
日が開け放たれた窓から差している。
蝙蝠傘のくっきりと黒い影が、床板の上に投げ出されている。
蝙蝠傘は、不安定な持ち手に体を預けて、欄干からぷらぷらと揺れている。
…確かに、友人はここのところ、様子がおかしかった。
沈み気味で、いつも何か考え込んでいて、何を話しても上の空だった。
だから、心配していたのだ。
今日の待ち合わせも、友人の様子を測るために呼び出したようなものだった。
しかし、30分経っても、やってこなかった。
だからここまで、それなりの覚悟を決めてやってきたのだ。
右手に携帯を握りしめて。
ところが、いざ入ってみると蝙蝠傘がぽつんと逆さまに揺れていた。
友人はおらず、家はとっくにもぬけのから。そういえば家具さえも見当たらない。
一体どういうことなのだろうか。
廊下に出てみる。靴が廊下に並んでいる。
玄関に向かう。玄関には、食器や洋服が、ずらりと置かれている。
逆さまだ。
ものが内外逆さまに置かれている。
尚も意味が分からない。
漠然とした、不安のような恐怖のような、訳のわからない感情が胸に迫ってくる。
逆さまとはこんなに異様で、恐怖を呼ぶものだったか?
一刻もこの家から出たい気持ちを押さえつけて、友人の行き先の手がかりを探す。
こんな突飛なことをして、何を考えているのだろう。
まさか、家の中に隠れているんじゃないだろうな…。
そういえば、収納や押し入れの中はチェックしていないのだ。
友人を探して、歩き出す。
コツッ…後ろで靴の音がする。
振り返ろうとした、意思と行動の狭間で、急に視界が暗転する。
意識が…遠のいていく…
どういうことだ……あの逆さまは、…何の意味が……
蝙蝠傘が逆さまに揺れている。
思考が、ブラックアウトした。
暖かい布団の中で、目だけが冴えている。
四方は真っ暗闇が支配している。
当たり前だ。深夜なんだから。
そろそろ空が白んでくる頃合いだ。
布団の中で寝返りを打ち、スマホのブルーライトで表現された時間を見る。
青白い光が、午前3時を示している。
眠れない。
眠れない。
なぜ眠れないかはよく分からない。
眠れないほど心配があるわけじゃなし。
眠れないほど辛いわけじゃなし。
なにしろ、私は苦しみたくないので、無我の境地に行こうと思った人間なのだ。
足るを知ろうと思った人間なのだ。
愛読書は『高瀬舟』だし、法華経とか四諦とかがマイバイブル。
向上心は仕事などのプライドを持つべきところで発揮して、プライベートではかなぐり捨てろ。これが私のポリシーだ。
何事も思い通りに行かなくたって仕方ないと諦めているし、それが悟りだと知っている。
だから、別に困り事は、その時々に「ちょっと困るなあ」と思うくらいで、私の人生にとっては重大な困り事ではない。
しかし、眠れない。
眠れないほどのことがないから、眠れないのだ。
どうやら私は、眠れないほど気楽らしい。
気楽すぎて眠れないことがあるだろうか。あるのだ。
現に私は眠れない。
深夜に、形だけは眠りながら、夜闇を見つめて夜を明かす。
それが、私の1日だ。
どうせ眠れないなら、何かしようか、と思うこともある。
思うことがあるだけで、しない。
だって、それほど切羽詰まってやろうと思うことも、ほとんどないのだから。
だから私は、夜は夜の闇をぼんやり楽しみながら、考え込むことに使っている。
瞑想、的な。
これがどうして、結構楽しいのだ。
眠れないほどの気楽さで、眠れない夜を明かす。
気がついたら、もう一時間が経とうとしている。
窓の外の空の端が、微かに白む。
朝がやってくる。