少女がマッチの火の中にみたクリスマスツリーの枝枝には、美しいキャンドルが飾られていたらしい。
マッチ売りの哀れな少女が見たという、巨大なクリスマスツリーを橙色の暖かな光に包んで描いた挿絵のページをぽっかりと開いたままの絵本が、無造作に置かれていた。
白髪の混じった小柄な蝋細工師は、ふしくれだった手を夢中で動かしていた。
熱で撓み、ひび割れた作業机の上で、彼は夢中で、固まった蝋に、絵の具とニスを塗りたくった。
文字盤のひび割れた時計が、一つ鐘を打った。
壁掛けのカレンダーがすっかり厚みをなくし、窓の風で揺らめくようになるこの時期は、彼の一番好きな季節だった。
クリスマスが近いからだ。
この時期こそ、彼の寂れた場末の蝋細工屋が、ぼかぼかと原色の明るい蝋燭やら蝋細工やらを拵えることができる唯一の時期だったからだ。
都会からの観光客もなかなか訪れないこの町では、緻密な蝋細工や、丹精を込めて華やかに拵えられた蝋燭はなかなか買い手がつかなかった。
普段出るものといえば、もっぱら、法事や仏壇に使われる、安価な剥き身の白い一本立の蝋燭か、誰かの誕生日に使われる、プラスチック玩具のようにビカビカと頼りなく細い量産型のキャンドルだった。
この蝋細工屋はそれなりに、時勢の変化や流行に、それなりの興味を持っていたので、アロマキャンドルなどという洒落たものも作ってはいたけれども、片田舎のこの町ではそれを定期的に買うものも少なかった。
だから、彼が工夫を凝らして緻密に作り上げた彼の職業矜持に見合うような“作品”は、平時の彼の店ではなかなか作れなかった。
しかし、その薄ぺらい平時も、この時期には一掃、報われる。
クリスマスという行事が台頭したからだ。
年末が近づき、クリスマスの浮ついた空気が世間を包むようになると、流石のこの町も、良きクリスマスを過ごそうと、いろいろ奔走するようになるからだ。
かくして、その時分には例外的に、この蝋細工屋でも、たくさんのものが売れていく。
蝋がぎっしり詰まった細々とした蝋細工や、趣向を凝らした洒落たキャンドルなどが、飛ぶように出ていく。
彼の“作品”が、名実共に顧客の正当な評価を受ける時期。
それが11月から12月という一ヶ月なのだった。
そのため、彼は、この時期を何より楽しみに、何より生き甲斐として、熱心に仕事に取り組んでいた。
この一ヶ月という短い時期に、彼は、寝食を惜しんで作業机に向かい、たくさんのキャンドルを生み出し、納得ができるまで作り上げるのだ。
彼は、この楽しみのために、一年をやりくりした。
この一ヶ月は、彼の職業人生のほぼ全てだった。
ひび割れ、インクの薄汚れた時計盤は、11時30分を指していた。
店の外は夜闇が降りて、この店の作業室だけが、煌々と電気と蝋燭の明るい光を放っていた。
彼は、深みのある緑の蝋の上に、白くもったりと蝋をしなだれかけた。
そして、その上に、たっぷり油の染みた芯を取り付けた。
それから、僅かに金ラメの入ったニスを選び取り、丁寧に塗りつけた。
完成したキャンドルは、仄かに葉の匂いを漂わせ、雪にかかられたモミの木のひと枝のように思われた。
彼は満足気に頷き、それからううん、と、四肢を突っ張った。
キャンドル作りのために、丸い猫背で固まっていた彼の背は、ぽきぽきと小気味いい音を立てて、弓形に伸び上がった。
それから彼は、満ち足りた様子で、キャンドルを横に避け、それから新しい型を手に取った。
キャンドルと電燈に囲まれて、彼は自分の仕事と人生の喜びを噛み締めていた。
今年が終わることを感謝した。
そして、来年の年末が早くくれば良いのに、と、子どもじみたことまで思った。
彼は満足だった。
しかし、彼は知らなかった。この小さな町の巨大な空き地を、全国区のキャンドル小売業社が買い取ったことを。
来年には、巨大なキャンドル工場が、この町にもできるということを。
彼はまた、せっせと仕事に取り掛かった。
どこからか、そよ風が迷い込んできた。
電燈は、それにも靡かず、変わらず彼の手元を照らしていた。
しかし、キャンドルの火は、風に靡かれて頼りなく揺れ、彼の預かり知らぬ間に、フッと音もなく消えてしまった。
晴れ渡った真っ青な空から、雨がぽとぽとと落ちていた。
「きつねのよめいり」私は口の中でつぶやいた。
窓の外は、雨だけがぽとぽとと音を立てていた。
こういう天気の時に、隣の家から顔を出して、うれしそうに話しかけてくれる幼馴染の声は、聞こえなかった。
雨がぽとぽと落ちていた。
私と幼馴染は、すごく仲が良かった。
幼稚園の時も、小学校の時も、中学の時も、高校に入ってからも。
私たちはいつも一緒だった。
小柄で、本や演劇を好いていた私の幼馴染は、とても優しくて、丁寧な性格だった。
何に対しても一生懸命で、諦めが悪くて、私は時々、「もういいじゃん」と不平を言った。
心配性で、楽観的で雑な私について、いつも気を張り巡らせて、危険を警戒していた。
火が苦手で、私が火の近くにいると、よく取り乱していた。
私たちは、生まれた時からずっと仲良しで、友達で、お互いが大切だった。
お家もお隣で、みんなに内緒でよくお話をした。
紙飛行機を飛ばしっこして遊んで、一緒に本を読んでごっこ遊びをして、一緒に駄菓子を食べた。
大きくなってからは、毎年一緒にお祭りにもいった。
テスト勉強を一緒にして、帰りには、待ち合わせて一緒に帰った。
私の、これまでの、たくさんの想い出は、幼馴染と共にあった。
幼馴染が、幼馴染とのたくさんの想い出が、私を作っているみたいだった。
私は幼馴染が大好きで、大切で、幸せになって欲しかった。
幼馴染が病院に運ばれたのは、一年前の天気雨の日だった。きつねのよめいり。
あの日、幼馴染は窓を開けて、「天気雨だ!きつねのよめいりだね」って笑って、
私は今日も話しかけてくれたのが嬉しくて、頷いて、
「じゃあ、また昼にさ、きつねのよめいり見よう」と幼馴染は笑って…
それから30分後、お隣に救急車がやってきた。
幼馴染は、お家で急に倒れたらしい。
幼馴染はそれから、帰って来なかった。
二度と帰れないところへ行ってしまった。私を置いて。
私と、たくさんの、本当に一人じゃ持ちきれないほどたくさんの想い出を置いて。
私は独りぼっちになってしまった。
私は雨が好きで、幼馴染は晴れの空を見上げるのが好きだった。
だから私たちは、一番天気雨が好きだった。
お互いに好きな天気が混じり合った空だったから。
この天気の時は、一緒に持ち合わせた、たくさんの想い出が、思い出せる天気だったから。
今日は、きつねのよめいり。天気雨だった。
たくさんの想い出が、天気雨に乗って、私のあたりを立ち込めていた。
幼馴染はもう帰ってこない。
幼馴染にはもう会えない。
あの毎日はもう帰ってこないのだ。
雨だけが降っていた。
真っ青な空から、ぽとぽとと。
たくさんの想い出が、支えを持たない私には、すごく重たかった。
僕が今住んでいるこの町には、雪が降らないらしい。
今日、バイトの先輩から聞いた。
秋の冷たい空気が、この小さな町を包んでいた。
変わりやすい秋の空から、しとしとと細い雨が、銀色に煌めきながら落ちてきていた。
僕は体を伸ばす。
お疲れ様です、お先に失礼します。
それだけいい置いて、上着を羽織る。
それから傘をさして外へ出る。
地元で使っていた、耐雪用の、重くて頑丈な、無骨な傘だ。
ここの町の天気なら、この傘じゃまず絶対に濡れない。
地元の山中の小さな町を逃げ出して、いろいろな町や村を転々として、もう二年になる。
山の中で、あの神様と友達になってから、僕は歳を取らなくなってしまった。
いつまで経っても成長しない僕は、少しでも長居すれば、奇異の目に囲まれてしまう。
だから、僕は根無草のように、転々と色々な地域に移動して旅暮らしをしていた。
地元はとても寒いところだった。
どれだけ寒いといえば、秋も終盤に掛かれば、雪がちらつくほど、寒いところだった。
きっと地元なら今頃、雪が降り始めているだろう。
この町はだいぶ南にある。
秋も深いこともあって、一応、冷たい風は吹いていたことには吹いていたが、僕に言わせれば、取り繕ったようにしか見えなかった。
冬は厳しく寂しい季節だ。
冬の近づいたこの時期の雨は、地元の雪が恋しくなる。
すっかり慣れてしまったこの生活の中でも、冷たく湿ったこの時期の風に当たると、幼い頃が思い出される。
まだあの神様と会う前に、同級生の人間の友達と、雪合戦をしたこと。
大人に内緒でお菓子を持ち寄って、かまくらに潜り込んだこと。
秋のうちに集めておいた木の実や木の枝で、雪うさぎや雪だるまを作って、見比べあったこと。
クリスマスまでに少しでも良い子になりたくて、両親と早起きして雪かきを手伝いに出たこと。
雪のある町に住んでいる時なら、雪かきや雪だるま作りをして、その想い出を弔うことができた。
そんな時は、胸の痛みも、少し和らいだ。
辛いのは、この町のように雪が降らない町で過ごす冬だった。
真っ白な雪が何処にもない日常は、あの普通の人として暮らした僕のあの人生が、どこにもないのだと言われているようで、キリキリと冷たかった。
しかし、僕も旅暮らしが長い。
そんな町にいる冬の過ごし方も、僕は見つけてあった。
冬になったら、ミルクパズルを買うのだ。
あの真っ白に塗りつぶされた、難しいパズルを一面、買うのだ。
冬になったら、僕はミルクパズルをする。
一面を真っ白く塗りつぶす、地元の雪を偲ぶために。
雪がないと塗りつぶされてしまって、輪郭も分からなくなる、遠い、遠い、人間だった頃の僕の記憶を偲ぶために。
僕は、冬になったら、ミルクパズルをするのだ。
僕の想い出を、僕の雪を偲ぶため。
そうして、一冬に一つのミルクパズルが出来上がれば、僕はまだ人間でいられる。
記憶を辿って、過去を抱きしめて生きていく、人間でいられるのだった。
だから、冬になったら、ミルクパズルを買おう。
冷たく湿った、秋雨が、さらさらと降っていた。
大袈裟なほど大きな傘の下から、僕は空を見上げた。
冬になったら、ミルクパズルを買おう。
僕の独り言は、銀の秋雨の灰色な根元に、静かに吸い込まれていった。
アイスコーヒーの氷が鳴った。
氷はもう半分溶けかかっていた。
とある街角の寂れたカフェの喫煙席に、体格の良いふくよかな体に、場違いな高いスーツをピシリと着こなした男が、座っていた。
男は退屈そうに、アイスコーヒーのグラスを傾けて、ぼんやりと氷を覗き込んでいた。
男は、コーヒーに手をつけようとしなかった。
職業柄、依存物の恐ろしさとそれに取り捕まった人の愚かさを知っている男は、自身のプライベートな生活の中では、依存物の類を嫌悪し、遠ざけていた。
それは、ニコチンやアルコールのみならず、砂糖やカフェインといった悪名低い低依存物質も例外ではなかった。
依存物を避ける生活を送っている男の日常では、喫煙席に座ることはおろか、カフェに訪れると言うことも、非日常なイレギュラー的行動であった。
「あの痩せ狐、いったい何処で油を売ってるのでしょうかね」
男は、コーヒーの中の溶けた氷にも辟易して、グラスを置きながら、溜息混じりに毒吐いた。
彼は商売敵の狐顔の男を待っていた。
商売敵…といっても、彼とその男の個人的折り合いが悪いだけで、実際には、同じ穴の狢、ともすれば男の商売が彼の顧客の資金源にもなり得るという、謂わば共同他社のような関係性であった。
さる男は、約束への異常な執着と手段を選ばぬ卑劣さを除けば、欲望に忠実で楽しみを求める、一歩踏み違えれば勢いよく坂を転げ落ちてゆくような、ある種平凡な、人間らしい人間であり、そして、この界隈を寝ぐらとする大抵のステレオタイプの例に漏れず、喫煙者であった。
彼は狐顔の男と会話をするのはあまり好きではなかった。
しかし、かの男とこの男は、恐ろしく因縁が深いらしく、度々顔を合わせ、渋々協力し合うのが常であった。
彼と男は、謂わばはなればなれの関係性であった。
友人でも、完璧な敵でもなく、利害関係で親しくなったと思えば、すぐに別れる、そんなはなればなれの縁。
それが、彼らだった。
だから、親愛さはともかく、彼とかの男の付き合いは、長いものだった。
狐男は、組織の足であったために、この辺の近況情報はかなり握っていた。
その情報目当てに、彼はその男との付き合いを切らずに置いていた。
そして、今日のように、この界隈にちょっと気になる異変があった時には、暇な時間に、男の出そうなところで時間潰しをするのが、彼の習性だった。
いつもはこの時間帯のこの場所なら、すぐに出くわせるはずだった。
煙たいヤニの香りに鼻を顰めながら、男は狐男の身を怪しんだ。
「まさかサツにつけられたのではないでしょうね。あの低脳狐」
彼は、警察及び国家権力が苦手だった。
普通に持ち歩いているものでさえ、法に触れるからであった。
彼は、そういう煩わしい面倒事で騒ぎになるのが嫌いであった。
彼は、手元のグラスを覗いた。
氷はもう殆ど溶け切って、グラスの外側に結露が滴って、洒落たテーブルを濡らしていた。
溜息を一つ吐き、彼は立ち上がった。
「やはり、噂は本当だったのかもしれませんね」
噂というのは、二週間ほど前、この辺りをシマとしていた、取り立てやの細面の男の死体が見つかった、というものだった。
その男は、路地裏で背側の腹部に刃物を突き立てたまま、狐によく似た細い目を瞑り、冷たくなっていたらしい。
ともかく、彼はカフェを出た。
どうやら今度こそ本当にあの狐と私ははなればなれになれたらしい、と思いながら。
秋の風が、大通りを抜けて細い路地の方へ、吹き抜けていた。
黄金の稲穂が頭を傾いでいる。
赤く焼けた空に、実った穂が一斉に頭を下げていた。
音は全くない。
不自然なほどに静まり返っている。
不安だった。
不安だけが、漠然とこの世界を覆っていた。
私は、その静寂の只中に、ぼうっと立ち尽くしていた。
さっきまで、冷たく冷えた夜闇の中を、家路を辿っていたはずだった。
繁忙期の残業を終えて、ガチガチに覚めてしまったかすみ目で、コンクリートの道を歩いていたのだ。
確か、あの時、どこからともなく子猫が呼んでいるような声がして、ああ、子猫がいるんだ、どうしたのだろう、と道を外れて辺りを探し回ったのだ。
子猫の呼び声はまだしていた。
私はその声を頼りにして、子猫を探して、探して、スマホのライトをつけて、辺りを見回して…
…それで、結局、子猫はいたのだっけ?
思い出せない。
ここはどこだろう。
急に足元がざわめいた。
周りで頭を傾けていた稲穂たちが一斉に、ピンと背筋を跳ね上げた。
足元が不安定と分かると、漠然とした恐怖が、漠然とした不安の中から急速に頭をもたげてきて、激しく混ざり合った。
低い、低い、轟くような声が、遥か上から聞こえた。
小さく、甲高い、驚くような声が、足元の地から湧き上がるように上がった。
その声を聞いてハッとした。
記憶の中にある、あの子猫の呼び声にそっくりだったから。
しかし、なぜ?
私の思考回路は、もうぐちゃぐちゃだった。
さざめくように周りの黄金の何かが伏せって、地が大きく揺れ騒いだ。
不安と恐怖が、私を強く苛んだ。
私は何処にいるのだろう。子猫は何処にいるのだろう。
だってこの地には、動物の気配など私以外には、とても感じられないのに。
風を切って進んで進んでいく末に、また上から、包み込むような声が聞こえた。
「あらあ、みぃちゃん。何処行ってたの?」
「にゃあん」
甘えたような声が、私と黄金の毛皮を包む。
その時、私は、閃光のように気づかされた。
私は、子猫の毛の最中にいるのだ。
子猫の、ふわふわで天鵞絨のように滑らかな、あの滑らかな毛皮のコートの中に立っているのだ。
立ち尽くしているのだ。
その証拠に、外の声とは裏腹に私の周りは、なんの音も立てない。
気づけば、静かな、静かな空気と微かな獣の香りが、ふわふわの中に立ち込めている。
みぃちゃん、というらしい子猫は、餌を食べていた。
あの声の主に貰った、高い高い餌を食べていた。
私がここにくる前に、誰が買うんだ、と悪態を心の内でついた、あのキャットフードを、当たり前のように食べているようだった。
ああ、あの声は罠だったんだ。
子猫の、自分の武器を惜しみなく生かした巧妙な罠だったんだ。
そう悟って、悟った途端に、糸が切れたように恐怖も不安もなくなった。
ただ、安らかな、謎の心持ちがたっぷりと、私の心も思考も満たしていた。