薄墨

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アイスコーヒーの氷が鳴った。
氷はもう半分溶けかかっていた。

とある街角の寂れたカフェの喫煙席に、体格の良いふくよかな体に、場違いな高いスーツをピシリと着こなした男が、座っていた。
男は退屈そうに、アイスコーヒーのグラスを傾けて、ぼんやりと氷を覗き込んでいた。

男は、コーヒーに手をつけようとしなかった。
職業柄、依存物の恐ろしさとそれに取り捕まった人の愚かさを知っている男は、自身のプライベートな生活の中では、依存物の類を嫌悪し、遠ざけていた。
それは、ニコチンやアルコールのみならず、砂糖やカフェインといった悪名低い低依存物質も例外ではなかった。

依存物を避ける生活を送っている男の日常では、喫煙席に座ることはおろか、カフェに訪れると言うことも、非日常なイレギュラー的行動であった。

「あの痩せ狐、いったい何処で油を売ってるのでしょうかね」

男は、コーヒーの中の溶けた氷にも辟易して、グラスを置きながら、溜息混じりに毒吐いた。

彼は商売敵の狐顔の男を待っていた。
商売敵…といっても、彼とその男の個人的折り合いが悪いだけで、実際には、同じ穴の狢、ともすれば男の商売が彼の顧客の資金源にもなり得るという、謂わば共同他社のような関係性であった。


さる男は、約束への異常な執着と手段を選ばぬ卑劣さを除けば、欲望に忠実で楽しみを求める、一歩踏み違えれば勢いよく坂を転げ落ちてゆくような、ある種平凡な、人間らしい人間であり、そして、この界隈を寝ぐらとする大抵のステレオタイプの例に漏れず、喫煙者であった。

彼は狐顔の男と会話をするのはあまり好きではなかった。
しかし、かの男とこの男は、恐ろしく因縁が深いらしく、度々顔を合わせ、渋々協力し合うのが常であった。
彼と男は、謂わばはなればなれの関係性であった。
友人でも、完璧な敵でもなく、利害関係で親しくなったと思えば、すぐに別れる、そんなはなればなれの縁。
それが、彼らだった。

だから、親愛さはともかく、彼とかの男の付き合いは、長いものだった。
狐男は、組織の足であったために、この辺の近況情報はかなり握っていた。
その情報目当てに、彼はその男との付き合いを切らずに置いていた。

そして、今日のように、この界隈にちょっと気になる異変があった時には、暇な時間に、男の出そうなところで時間潰しをするのが、彼の習性だった。

いつもはこの時間帯のこの場所なら、すぐに出くわせるはずだった。
煙たいヤニの香りに鼻を顰めながら、男は狐男の身を怪しんだ。

「まさかサツにつけられたのではないでしょうね。あの低脳狐」

彼は、警察及び国家権力が苦手だった。
普通に持ち歩いているものでさえ、法に触れるからであった。
彼は、そういう煩わしい面倒事で騒ぎになるのが嫌いであった。

彼は、手元のグラスを覗いた。
氷はもう殆ど溶け切って、グラスの外側に結露が滴って、洒落たテーブルを濡らしていた。

溜息を一つ吐き、彼は立ち上がった。
「やはり、噂は本当だったのかもしれませんね」

噂というのは、二週間ほど前、この辺りをシマとしていた、取り立てやの細面の男の死体が見つかった、というものだった。
その男は、路地裏で背側の腹部に刃物を突き立てたまま、狐によく似た細い目を瞑り、冷たくなっていたらしい。

ともかく、彼はカフェを出た。
どうやら今度こそ本当にあの狐と私ははなればなれになれたらしい、と思いながら。

秋の風が、大通りを抜けて細い路地の方へ、吹き抜けていた。

11/17/2024, 5:11:23 AM