薄墨

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黄金の稲穂が頭を傾いでいる。
赤く焼けた空に、実った穂が一斉に頭を下げていた。

音は全くない。
不自然なほどに静まり返っている。
不安だった。
不安だけが、漠然とこの世界を覆っていた。

私は、その静寂の只中に、ぼうっと立ち尽くしていた。

さっきまで、冷たく冷えた夜闇の中を、家路を辿っていたはずだった。
繁忙期の残業を終えて、ガチガチに覚めてしまったかすみ目で、コンクリートの道を歩いていたのだ。

確か、あの時、どこからともなく子猫が呼んでいるような声がして、ああ、子猫がいるんだ、どうしたのだろう、と道を外れて辺りを探し回ったのだ。

子猫の呼び声はまだしていた。
私はその声を頼りにして、子猫を探して、探して、スマホのライトをつけて、辺りを見回して…

…それで、結局、子猫はいたのだっけ?
思い出せない。
ここはどこだろう。

急に足元がざわめいた。
周りで頭を傾けていた稲穂たちが一斉に、ピンと背筋を跳ね上げた。
足元が不安定と分かると、漠然とした恐怖が、漠然とした不安の中から急速に頭をもたげてきて、激しく混ざり合った。

低い、低い、轟くような声が、遥か上から聞こえた。
小さく、甲高い、驚くような声が、足元の地から湧き上がるように上がった。

その声を聞いてハッとした。
記憶の中にある、あの子猫の呼び声にそっくりだったから。
しかし、なぜ?
私の思考回路は、もうぐちゃぐちゃだった。

さざめくように周りの黄金の何かが伏せって、地が大きく揺れ騒いだ。
不安と恐怖が、私を強く苛んだ。
私は何処にいるのだろう。子猫は何処にいるのだろう。
だってこの地には、動物の気配など私以外には、とても感じられないのに。

風を切って進んで進んでいく末に、また上から、包み込むような声が聞こえた。

「あらあ、みぃちゃん。何処行ってたの?」
「にゃあん」

甘えたような声が、私と黄金の毛皮を包む。

その時、私は、閃光のように気づかされた。
私は、子猫の毛の最中にいるのだ。
子猫の、ふわふわで天鵞絨のように滑らかな、あの滑らかな毛皮のコートの中に立っているのだ。
立ち尽くしているのだ。

その証拠に、外の声とは裏腹に私の周りは、なんの音も立てない。
気づけば、静かな、静かな空気と微かな獣の香りが、ふわふわの中に立ち込めている。

みぃちゃん、というらしい子猫は、餌を食べていた。
あの声の主に貰った、高い高い餌を食べていた。
私がここにくる前に、誰が買うんだ、と悪態を心の内でついた、あのキャットフードを、当たり前のように食べているようだった。

ああ、あの声は罠だったんだ。
子猫の、自分の武器を惜しみなく生かした巧妙な罠だったんだ。
そう悟って、悟った途端に、糸が切れたように恐怖も不安もなくなった。

ただ、安らかな、謎の心持ちがたっぷりと、私の心も思考も満たしていた。

11/16/2024, 6:07:37 AM