薄のごと 流る秋波は 多かれど
この文のみは 透垣の蔦
蔦育ち 透垣ふみて 越え行けば
蔦の頭は 秋風に向く
よのなかに 流る秋風 躱しつつ
変わらぬものは 透垣の蔦
秋風は 野分のごとく 吹き荒ぶ
枯れた蔦取り いとさぶしもの
野分にも 勝ちし蔦には 寄る辺あり
君の添木に 勝るものなし
根の強し 蔦とや見るや 君が蔦
我が木の下へ 居懸からんや
寄り合って 見る望月の 影優し
冷たき秋風も 温き東風
望月の 下寄り合った 蔦と木を
誰か裂かるや 野分も秋風も
秋恋の 言葉思ひて 夜を明かす
一人の蔦は 心許なし
秋風の 便りのみ聞き 夜を明かす
蔦のみぞ待つ 秋の長夜
今日の月 送れよ風よ 君がもと
我が心根の あまた全てを
君が来ず 文運びくる 風の音は
冷たく柔く 秋風のごと
秋風に 吹かれぬものなど あらざれば
頼るべきなし 蔦も文も
その日の麻婆豆腐は会心の出来だった。
ピリッと辛い豆腐を飲み下して、しばらく、さっきの言葉の意味を考えていた。
目線の先では、あなたが無表情で食事を頬張っている。
チェーン店から取り寄せた、一人分のフライドポテトとパンケーキセットを齧りながら、あなたはさっきの言葉を繰り返した。
「…そういうことだから。やっぱり私たち、合わないよ。さよなら。…また会いましょう、いつか」
尚も喋り続けるあなたが、遠く遠く思えた。
私とあなたが出会ったのは、少し昔のこと。
ちょうど、今日と同じように暖かい秋の日で、雨が降っていた。
私が差し掛けた傘に、あなたが柔らかく微笑んで入って、二人で取り止めのない話をしながら、帰路を一緒に歩いた。
自動車が、秋風と雨を掬い上げながら通り過ぎて、「なんで今まで話したことなかったんだろうね。こんなに話が盛り上がるのに」と、笑い合った。
あの日から、私とあなたは仲良くなった。
私たちは友達になり、親友になり、自立する段には、一緒に暮らし始めるほどの仲になった。
けれども、私たちは正反対だった。
ご飯は辛いものが好きで自炊中心。食べ物はなんでも食べて、ちょっと素敵な食器を買って、キチンと三食、たくさん食べる私。
甘いものが好きで料理は苦手。食へのこだわりと偏食少食で、食事よりも趣味や生活が大切なあなた。
毎日、朝早く起きて日光を浴びたい私。
出来るだけ長く眠って、のんびり過ごしたいあなた。
課金やサービスに使うお金は節約する私。
課金やサービスにお金を使うために日常生活を切り詰めるあなた。
服は身だしなみを整える程度でいい私。
少しでも綺麗になりたいあなた。
私たちはよくよく知れば何もかも正反対で、一緒に暮らすにはあまりにも噛み合わなかった。
きっと、人と人が一緒に過ごせる時間には限界がある。
私たちは、きっと、一緒に長く居すぎたのだ。
最近は、私とあなたは顔を合わせると、すれ違いと喧嘩ばかりだった。
顔を合わせたあなたは、いつも眉間に皺を寄せていて、ついつい私もしかめ面になる。
あなたの行動に、私がイライラしてしまう。あなたも負けじと言い返して、ひとしきり水掛け論をして、最後には、冷たい沈黙だけが、私たちの間に横たわる。
分かってる。
あなたの提案が正しいことも。
私たちの関係は、もう終わりだということも。
…それでも。
それでも、私の中にはあなたと過ごした、楽しい日々が満ちている。
あなたがくれたもの、あなたがしてくれたこと、あなたと笑ったこと。
冷め切ったこんな仲になった二人でも、もう合わない方が良いのだとわかっていても、本当に終わりなんだと知っていても。
どうしても、心の奥で望んでしまう。
また、あの日に戻りたい。
もう一度、笑い合いたい。
もう一度、賑やかに会話をしたい。
もう戻れないと知っていても。
だから、これが一緒に食べる最後の食事なのだとしても。
あなたの、ジャンクでおやつみたいな食事に、どれだけ辟易していたとしても、私は言ってしまう。
「…うん。また会いましょう」
今日はきっと、私とあなたが絶交する、二人の最後の日。
それでも、最後でも、私たちの別れの文言は変わらない。
私もあなたも変えられないのだ。きっと。
たとえもう二度と会えないとしても。
「「また会いましょう」」
私とあなたはそれだけ口を揃えて、それから別々に、歩いていくのだ。
白光りする刃物の下を潜り抜ける。
追いつかれる訳にはいかない。
必死に足を動かして、体をすくめる。
屈んだ頭上を、ピカピカに磨かられた刃渡りが、一線の光を描いて、通り過ぎていく。
食事前のスリル満点の追いかけっこ。
この暮らしを始めることになってからの日課だ。
テーブルの大きさや、ナイフの間合い。
もうすっかり体に染み付いている。
ここは、とある商船の中。
いつでも人間がいて、猫が飼われている商船上は、僕たちのようなネズミには、危険がいっぱいの、恐ろしい棲家だった。
しかし、僕が前までいたところに比べると、そんな危険はスリルと呼んで楽しめるくらいの危険だと笑い飛ばせる。
ここに来る前、僕は研究施設、とやらにいた。
スリルなんてものじゃなかった。
あそこはここ以上に、恐ろしい場所だった。
食事は出るが、その食事に何が入っているか、分かったものではない。
それだけではない。
いきなり乱暴に掴み出されて、追いかけ回されたり、激痛の走る何かを皮膚に押し付けられたり、突然電気に追い立てられたり…
あそこは地獄だった。
立派な寝床はあったけれど、気が休まる時は一時もなかった。
だから僕は逃げ出した。
研究施設から外へ出るのは、“セッケン”などと呼ばれるあの包み紙たちだった。
あの時。
僕はあの仲間たちの中で唯一、上手く包み紙に逃げ延びた。
包み紙は段ボールに積み込まれ、この船に乗せられた。
これは幸いと、僕はこの商船に転がり込み、棲みつくことにした。
猫に気づかれないように、包みと段ボールを齧るのは、スリル満点な上に大変だったが、あの施設で変な迷路に押し込まれて、電気に怯えながら彷徨った時と比べれば、ずっと楽しい、スリルの範疇だった。
それから僕はずっとこの船にいる。
初めは、適当な陸地で船を降り、田舎に棲家を探そうと思っていたのだが…。
船旅というのは、案外楽しいものだ。
何処かの港に停まるたび、積荷は変化する。
物珍しいものや面白いもの、変わった味のもの、一風変わったもの、極上のもの…。
船に乗り込んでくる人や生き物も変わる。
痩せ細ったのや動きの鈍いの、キビキビと動くもの、賢いの、優しいの…
いろいろなものや人が見られるのは、新鮮で楽しかった。
食べ物は、人間のをくすねれば、日替わりで豪華で良いものが食べられる。
食前食後に、命懸けの追いかけっこも、慣れると良い運動になって、楽しかった。
暇な時は、人間や猫やカモメを揶揄かうといい。
大きな生き物が、僕を追い回した挙句に間抜けな面を晒すのは、とても面白かったし、上手く逃げ延びた時の満足感や愉しさは、ちょっと中毒になりそうなくらいだった。
というわけで、僕は今も海の上で、船上生活を行っている。
賢い旅ネズミとして。
ここの危険は、楽しいスリルで、僕の生活のスパイスになっている。
おおっと、危ない。
僕は人間の刀を交わして、人間の視界を切るために素早く梁に登る。
猫がやってくる音を耳にとらえながら、一気に登り終える。
それから猫の目の前に出し抜けに飛び出し、そのまま勢いで、壁の隙間に体を捩じ込む。
猫の爪が尻尾の先に掠めて、空振った。
やれやれ。
僕は丁寧に尻尾を点検し、毛皮を撫でながら落ち着く。
スリルはやっぱり良いものだ。
壁の外からは、間抜けな生物たちの騒ぐ音が聞こえる。
僕はそれを肴に、ゆっくりと取り上げたチーズを齧る。
スリルは、楽しい生活に欠かせない良いスパイスだ。
青く冴え冴えとした水面の上で、白鳥が眩く白い翼を、羽ばたいていた。
飛沫が上がって、水面は歪む。
しかし、いくらその立派な翼が羽ばたいたとしても、白鳥の体が、その青い水面から浮き上がることはなかった。
私は伸びをして、中庭に歩み出した。
中庭に大きく作られた、青い池に、白鳥や水鳥がのどかに浮いていた。
池に浮いている鳥たちは、どれも、とても美しく大きな翼を持っていた。
しかし、奴らはこの屋敷で飼われている鳥だ。
風切り羽が切り取られている鳥たちで、その美しい翼が彼らの体を空へ浮かすことは二度とない。
飛べない翼を煌めかせた美しい鳥たちだ。
空を見上げる。
人面を顔に貼り付けた鳥が、小さな翼を目一杯広げて飛び交っていた。
呪術師が使役する呪獣たちだ。
おそらく主人から言伝を賜って、届ける最中なのだろう。
彼らはしゃがれた羽をはためかせて、それでも空を舞っていた。
目の前を、ずんぐりとした蜂が飛び過ぎていった。
不恰好な体に見合わなぬ、ちぢれた小さな翅をうるさく動かしながら、飛び去っていく。
うん、いい暮らしだ。
王家お抱えの呪術師一族が治める、呪術師の地に、二ノ妃として嫁いで、そろそろ二週間が経とうとしている。
呪術師の家に嫁ぎたがる娘は、なかなか居ないらしい。
しかも、その家の第二の嫁としてなど。
よっぽどの変わり者しか行きたがらないというので、この家に嫁ぐ娘を出す家は、持ち回りで決まっていた。
私の家は、ちょうどこの世代にあたっていた。
一ノ妃は、ぽってりとした唇とスッキリとした目鼻立ちが美しく、夫にも大切にされて、煌びやかで、私よりもずっと美しかった。
だから、私にはちょうど良かった。
私は変わり者だった。
お洒落にはあまり興味がなく、自由を愛していた。
人に幸せにしてもらうなど、真っ平ごめんで、夫に普通の人を当てがわれるのも、真っ平だった。
だからこの縁談を父から頼まれた時、一も二もなく受けた。
私は、あの池に浮いている鳥たちのような、綺麗な大きな翼は欲しくなかった。
ちょうど目の前を飛んで行ったマルバチや、空をしきりに飛び交う呪鳥のような、醜く小さな羽が欲しかった。
飛べない翼なんていらなかった。
だからワクワクしながらこの地へ来た。
実際、この地での暮らしは楽しい。
当たり前の教養として語られる呪術の話は、どれも目新しくて、好奇心を満たしてくれる。
二ノ妃ということもあり、身分はそこまで上に扱われないため、自由はよく効く。
呪獣の世話や書籍の読破や散歩や…構う人のいない時間は、そうやって有意義に充てられる。
私用の館の一角、二ノ館は私が管理するよう承っていた。
一ノ妃には補佐がつけられたらしいが、妾にあたる私にはそれがない。
が、それも楽しい。
なんやかんやとやりくりをし、使用人たちの人間関係を鑑み、時には一緒に雑用をするのも、暇ごなしになって、達成感もいっぱいだった。
豪奢で美しい一ノ妃とのお話は、初めは気を悪くされるのではないかと不安だったものの、杞憂だった。
一ノ妃は美しく、優しく、しなやかな、良い方だった。
真綿に包まれるように育ち、呪獣に触れないように守られた方ではあったが、その分、文化的な機転が素晴らしい人で、話していて飽きがこなかった。
私がうるさく飛び回るマルバチだとすれば、この館では最上の身分と傅かれ、非常に大事にされる、一ノ妃は、あの青い池とこの広い中庭で主として、翼を広げて暮らす、白鳥だった。
飛べない翼。しかし、眩く美しい翼を大きく広げていた。
その姿は素晴らしく気高くて、美しかったし、尊敬の対象だ。
しかし、私には真似できないと、素直に思うし、私はそこまで大きな翼を欲しいとは思わなかった。
そんな私たちだったので、待遇の差で絶妙に噛み合わない会話も、さして不満を持たない私たちの間では、ただ面白い話のタネである。
中庭を歩いて、まっすぐ一ノ館へ向かう。
今日は、その一ノ妃と、一緒に朝の散策に出る約束をしているのだ。
今日はどんな話をしようか、そんなことを考えながら、中庭を突っ切る。
日がゆっくりと照り始めている。
国中で一番恐れられている、呪術の地の領主館の朝は、平和に過ぎていく。
朝日が、穏やかに輝き始めていた。
実るほど 頭を垂れる 稲穂かな
いつぞや聞いた、そんな俳句が頭をよぎった。
それほどに、そのススキは撓んでいた。
鈴生りに実ったススキの穂が、昨日降った秋の雨粒をいっぱいに含んで、大きく、茎が折れ曲がるほど、頭を垂れていた。
すっかり秋のひんやりとした空気が、辺りに満ちていた。
自転車を押しながら歩く。
太陽が地平線すれすれまで沈み、赤々とした光を、空いっぱいに広げていた。
「ススキ、みんな濡れてるね。昨日の雨、やばかったからなあ」
隣を歩く先輩が、乾いたススキの穂みたいな、嘘みたいに軽やかな声で言った。
河川敷のススキは、どれも濡れて、ずっしりと重たそうに頭を垂れていた。
何を返すか迷ったが、とりあえず、自分の思ったことをそのまま口に出す。
「そうですね。…なんか有名な俳句を思い出しました」
「…ああ!『実るほど…』ってやつ?」
「え、なんでそんな分かるんですか?先輩、エスパー?」
「はっはっは、私ほどの先輩力ともなれば、後輩の考えていることなんてお見通しなのだよ。どうだ?私の有能さが怖いだろう?」
「怖いというより、気持ち悪いです」
「ひどい!なんて可愛げのない後輩!!」
先輩は目を剥いて、それから大袈裟に嘆いてみせる。
それは正しくいつものノリで、だから私は笑って受け流す。
「で、そんな冗談はさておき、ホントはなんで分かったんです?」
先輩は一息を呑んで、それから妙に軽く、ススキを折りとった時の、手に感じる拍子抜けなほどの重さみたいな、不自然なほどの軽さで、続けた。
「…だって、顧問がいつも言ってたじゃないか。説教とか訓示垂れる時に。礼儀なんかの」
私は、呆然となって。
ちょっと立ち尽くして、まじまじと先輩の顔を見つめてしまった。
先輩は、先輩の顔を眺めている私の視線に気づいて、節目がちに目を逸らした。
微かな、息混じりの小さな声で先輩が呟く音が、遠く聞こえた。
「そっか。これも…」
先輩は、私の憧れだったらしい。
先輩とは、小さい頃からずっと仲が良くて、一緒に試合に出るのは、私の密かな憧れだった。
だから、私は先輩と同じ部活で、どんな厳しい練習も、一緒に乗り越えてきた。
でも…。
あれは、先輩の引退試合の日だった。
あの日、試合会場に向かっていた私は、事故に巻き込まれてしまった。
気づくと、病院のベッドに運び込まれていた。
病院で起きた私には、私がなんのためにあの道に居たのか、覚えがなかった。
どうやら、記憶障害が起きていますね。記憶のことは、まだ科学的に解明されているものでもないので、はっきりとは言えないのですが、おそらく脳の損傷があったことと、事故のストレスの影響でしょう。
医者はそう私に告げた。
事故が起きて、遅ればせながら私が病院に運び込まれた時、先輩の試合は始まっていて、先輩は、悔いのない部活の締めくくりを果たした。
試合をやり遂げ、華々しい引退を飾った矢先に、先輩は私のことを聞いたらしい。
私は、部活を辞めることにした。
部活について、積み上げたはずの記憶を全部忘れてしまったから。
顧問や先輩はは休部でも…と勧めてくれたが、憶えてないことにショックを受け、遠巻きに、優しく私に話しかけてくれる部員たちに気が引けて、結局、辞めてしまった。
しかし、この先輩は、こんな私にも変わりなく接してくれた。
跡を濁してしまった後輩を、先輩は一後輩として、幼い頃からの友人として、普通に接してくれた。
しかし、時折、先輩の顔は陰った。
会話の節々で。私の表情を見て。
私は、先輩との想い出を幾つか忘れてしまっているのだから、当たり前だ。
なんで先輩はこんな私と一緒にいてくれるのだろう。
想い出も恩も忘れてしまったこんな私に。
罪悪感を生む存在の、こんな私に。
先輩の、あったはずの悔いのない青春を奪ってしまった私に。
視界の端で、ススキが重そうに揺れている。
花言葉には「悔いのない青春」というのがあるらしい。
でも、今日のススキは見窄らしくて湿ってしまっていて、とてもそうは見えなかった。
まるで、先輩の青春のようで、私が濡らしてしまったようで、とても見ていられなかった。
「…あ、これから夜、雨だって。濡れたら嫌でしょ?早く帰ろ」
先輩のその声で我に帰る。
先輩が私の手首を握っている。
ただの先輩のように。ただの友人のように。
私は、先輩に手を引かれるままに歩き出す。
「ごめんなさい」
言っても詮無いことで、自己満足だから言おうとしなかったそれが、零れ落ちる。
先輩は振り向かなかった。
ただ柔らかく手を握って、強く手を引いて。
「早く帰ろ」
明るく乾いた先輩の声が、私の耳を優しく撫でる。
私たちは、黙って歩き始める。
ススキが頭を垂れて見守る、その道を。