薄墨

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実るほど 頭を垂れる 稲穂かな
いつぞや聞いた、そんな俳句が頭をよぎった。

それほどに、そのススキは撓んでいた。
鈴生りに実ったススキの穂が、昨日降った秋の雨粒をいっぱいに含んで、大きく、茎が折れ曲がるほど、頭を垂れていた。

すっかり秋のひんやりとした空気が、辺りに満ちていた。
自転車を押しながら歩く。
太陽が地平線すれすれまで沈み、赤々とした光を、空いっぱいに広げていた。

「ススキ、みんな濡れてるね。昨日の雨、やばかったからなあ」
隣を歩く先輩が、乾いたススキの穂みたいな、嘘みたいに軽やかな声で言った。
河川敷のススキは、どれも濡れて、ずっしりと重たそうに頭を垂れていた。

何を返すか迷ったが、とりあえず、自分の思ったことをそのまま口に出す。

「そうですね。…なんか有名な俳句を思い出しました」
「…ああ!『実るほど…』ってやつ?」
「え、なんでそんな分かるんですか?先輩、エスパー?」
「はっはっは、私ほどの先輩力ともなれば、後輩の考えていることなんてお見通しなのだよ。どうだ?私の有能さが怖いだろう?」
「怖いというより、気持ち悪いです」
「ひどい!なんて可愛げのない後輩!!」

先輩は目を剥いて、それから大袈裟に嘆いてみせる。
それは正しくいつものノリで、だから私は笑って受け流す。

「で、そんな冗談はさておき、ホントはなんで分かったんです?」

先輩は一息を呑んで、それから妙に軽く、ススキを折りとった時の、手に感じる拍子抜けなほどの重さみたいな、不自然なほどの軽さで、続けた。
「…だって、顧問がいつも言ってたじゃないか。説教とか訓示垂れる時に。礼儀なんかの」

私は、呆然となって。
ちょっと立ち尽くして、まじまじと先輩の顔を見つめてしまった。

先輩は、先輩の顔を眺めている私の視線に気づいて、節目がちに目を逸らした。
微かな、息混じりの小さな声で先輩が呟く音が、遠く聞こえた。
「そっか。これも…」

先輩は、私の憧れだったらしい。
先輩とは、小さい頃からずっと仲が良くて、一緒に試合に出るのは、私の密かな憧れだった。
だから、私は先輩と同じ部活で、どんな厳しい練習も、一緒に乗り越えてきた。

でも…。
あれは、先輩の引退試合の日だった。
あの日、試合会場に向かっていた私は、事故に巻き込まれてしまった。

気づくと、病院のベッドに運び込まれていた。

病院で起きた私には、私がなんのためにあの道に居たのか、覚えがなかった。

どうやら、記憶障害が起きていますね。記憶のことは、まだ科学的に解明されているものでもないので、はっきりとは言えないのですが、おそらく脳の損傷があったことと、事故のストレスの影響でしょう。
医者はそう私に告げた。

事故が起きて、遅ればせながら私が病院に運び込まれた時、先輩の試合は始まっていて、先輩は、悔いのない部活の締めくくりを果たした。
試合をやり遂げ、華々しい引退を飾った矢先に、先輩は私のことを聞いたらしい。

私は、部活を辞めることにした。
部活について、積み上げたはずの記憶を全部忘れてしまったから。
顧問や先輩はは休部でも…と勧めてくれたが、憶えてないことにショックを受け、遠巻きに、優しく私に話しかけてくれる部員たちに気が引けて、結局、辞めてしまった。

しかし、この先輩は、こんな私にも変わりなく接してくれた。
跡を濁してしまった後輩を、先輩は一後輩として、幼い頃からの友人として、普通に接してくれた。

しかし、時折、先輩の顔は陰った。
会話の節々で。私の表情を見て。
私は、先輩との想い出を幾つか忘れてしまっているのだから、当たり前だ。

なんで先輩はこんな私と一緒にいてくれるのだろう。
想い出も恩も忘れてしまったこんな私に。
罪悪感を生む存在の、こんな私に。
先輩の、あったはずの悔いのない青春を奪ってしまった私に。

視界の端で、ススキが重そうに揺れている。
花言葉には「悔いのない青春」というのがあるらしい。
でも、今日のススキは見窄らしくて湿ってしまっていて、とてもそうは見えなかった。
まるで、先輩の青春のようで、私が濡らしてしまったようで、とても見ていられなかった。

「…あ、これから夜、雨だって。濡れたら嫌でしょ?早く帰ろ」
先輩のその声で我に帰る。
先輩が私の手首を握っている。
ただの先輩のように。ただの友人のように。

私は、先輩に手を引かれるままに歩き出す。
「ごめんなさい」
言っても詮無いことで、自己満足だから言おうとしなかったそれが、零れ落ちる。

先輩は振り向かなかった。
ただ柔らかく手を握って、強く手を引いて。
「早く帰ろ」
明るく乾いた先輩の声が、私の耳を優しく撫でる。

私たちは、黙って歩き始める。
ススキが頭を垂れて見守る、その道を。

11/10/2024, 3:09:39 PM